過去、フォーnetで掲載致しました記事の中で、

皆様から反響の高かった記事や、編集者のオススメの記事を

ご紹介致します。

2015年2月号 東郷神社

そこが聞きたい!インタビュー

「皇国の興廃此の一戦にあり各員一層奮励努力せよ」

日本海海戦の先人達の偉業と史実を今に伝える

 

今から百十一年前に日露戦争の帰趨を決した「日本海海戦」。東郷平八郎元帥が率いる日本連合艦隊が当時、世界最強といわれたバルチック艦隊を破り、日本をロシアの南下から護ったその偉業と史実を忘れてはならない。その歴史を今に伝える日本海海戦紀念碑と元帥を祀る東郷神社(福津市)の創建物語。

 


 

東郷神社

宮司 川野萬里子氏(六十八歳)


 

祖父・安部正弘氏の志

 

 

―東郷神社が創建されたきっかけからお聞かせください。

川野 元々は明治三十八年(一九〇五)五月二十七日に、当時十八歳の祖父・安部正弘が、神社があるこの大峰山の山頂から見た日本海海戦、見えたと言っても煙だけだったそうですが、ここに海戦の紀念碑を建てようと思い立ったのが始まりでした。東郷元帥にもすぐに承諾いただいたのですが、「戦勝記念にすることはならん」と仰ったそうです。日本人、ロシア人分け隔てすることなく、海戦で亡くなった全ての人々を慰霊するために、当初は塔の下部は慰霊するための部屋として計画されたようです。

―元帥との出会いは?

川野 獣医学を学ぶために上京した祖父は、出光興産の創業者・出光佐三氏の本家筋の出光万兵衛海軍中将からの紹介で東郷家に書生という形で出入りさせていただくことになったそうで、元帥に可愛がっていただいたようです。

―明治四十五年に九州に帰ってこられますね。

川野 東京で獣医学を学んだ後、熊本県立阿蘇農業高校で教鞭をとるために九州に帰る時に、元帥から結婚相手として薦められたのが、明治二十八年に亡くなった海軍少佐の娘・伊地知竹を紹介されました。日本海海戦の連合艦隊旗艦「三笠」艦長の伊知地彦次郎とは従兄弟同士になります。ちなみに、東郷家と伊知地家は薩摩では隣同士でした。ルーツを辿ると、両家は繋がっているようです。また、大山巌陸軍大将 乃木稀典陸軍大将とも縁続きだったようで、日露戦争は皆で戦っているんですね。結婚後、阿蘇から実家の津屋崎(現・福津市)に帰って獣医医院を開業して、大正九年に津屋崎町の町議会議員に当選します。これから本格的に紀念碑建立のための活動を始めました。頻繁に上京して、元帥宅と海軍を頻繁に訪れて、その熱意が通じて海軍からはすぐに認可が下りました。

―しかし、今度は資金集めが大変だったでしょうね。

川野 大峰山の山頂に紀念碑を建立することを条件に永代土地を借り受けることができました。大正十一年、公園頂上一帯の道路を整備したり桜を植林したりして公園化してきます。元帥の承認を得て「東郷公園」と名付けました。祖父は当初、私費でやるつもりでしたが、思った以上に経費がかさんだために、全国に寄付金を募ろうと考え、元帥をはじめ福岡県知事、県会議員など多数の賛同を得て「日本海海戦記念保存会」を発足させ、三十万円の寄付金募集の認可を受けました。家業を投げ打って全国を走り回り、事業の宣伝と資金作りに奔走します。出光佐三さんがポンと三百円を提供していただきました。また、戦後、日立製作所の社長を務められた倉田主税さんは、出身が福津市で幼い頃から祖父の大親友でこの事業に終生協力してもらいました。しかし、大正十二年九月一日の関東大震災が起きてそれどころではないという状況になりました。寄付金を集めるどころではなく、募集期限も切れてしまいました。また、「信用がない」など祖父に対する心無い誹謗中傷もあったようです。しばらくの間、祖父は孤立無援の状態になったそうです。

 

 

 

幾多の困難を乗り越えて

 

 

 

―そのような状態に陥っても諦めなかったんですね。

川野 大正十一年の軍縮会議で日本は十八隻を廃艦しなければならくなって、この時廃艦になった沖ノ島艦が保存会に払い下げられることになりました。沖ノ島艦は、日本海海戦で日本海軍に捕獲された旧ロシア帝国海防艦「ゼネラル・アドミラル・アプラクシン号です。祖父は沖ノ島艦払い下げを実現するために海軍のあらゆる方面に働きかけます。何度も断られますが、諦めずに粘り強く交渉すると、ようやく許可が下りましたが、今度は二万円の巨費という壁にぶつかりました。親類一同を説得して全員の財産目録を差し出しました。ところが、保存会は財団法人ではないので、法人組織にするか、町名義でないと荒い下げできないという通達が来ます。そこで、払い下げ代金を町に寄付して、町が軍艦の払い下げを受けた後に無償で保存会に貸し出すという方法で切り抜けました。そうして、大正十四年四月二十二日にようやく沖ノ島艦が津屋崎港に曳航されてきました。

―しかし、肝心の記念碑建立にはまだ時間を要したようですね。

川野 財団法人「三笠保存会」からの三千五百円の援助を受けて、これを基金にして建立に踏み切ります。紀念碑の総工費は一万五千円で、展望台は軍艦の司令台塔を型どったもので、高さ三十八尺(約11・5メートル)で正面の「日本海海戦紀念碑」の大文字は元帥の揮毫です。活動を始めて十数年経ってようやく、昭和九年六月二十七日に紀念塔の除幕式を迎えることになりました。ところが、その前の五月三十日に元帥がお亡くなりになりました。それで、祖父は神社を創建することを決意しました。元帥からには生前、打診していましたが、固く断られていました。亡くなられたのを機に、神社創建に動き出しました。たまたま、元帥のお遺髪が知り合いの伝手で分けてもらえるようになり、奉安殿を建てて安置し祀る事になりました。昭和十年五月二十七日のことでこれが東郷神社の起こりです。ちなみに東京の東郷神社の創建は昭和十五年です。当時は神職はおらず、近くの宮地嶽神社から来ていただき神事を執り行っていました。創建以来、陸海軍の幹部をはじめとしたいろいろな方が参拝にお見えになっています。戦後には、三船敏郎さん、笠智衆さんらスタッフが映画「日本海大海戦」(昭和四十四年 東宝)のヒット祈願に参拝されています。

 

 

 

「日露戦争は日本の自衛戦争」という史実を伝える

 

 

 

―当時、三笠だけではなく春日など戦艦の主砲がかなり陳列されていたようですが、今残っているのは宝物館玄関脇の三笠の主砲の先端部分だけですね。

川野 戦時中も戦局が悪化して物資が厳しくなったので軍の要請で苦労して手に入れた沖ノ島艦を軍事資材として供出しています。戦後は、GHQの指導の下に、兵器処理委員会によって三笠の主砲をはじめ各種大砲七門が切断され八幡製鐵所(現・新日本製鐵)の溶鉱炉に投入されることになりました。「せめて三笠の主砲の一部でも残したい」と先端部分を切断し、昭和四十年まで地中に埋めて隠していました。その後、神社の拝殿を新たに創建したり、公園を整備して今の形になったのが、昭和四十五年のことです。祖父はそれを見届けるように翌年に八十六歳で亡くなりました。

―宮司のお母さん(久美さん 九十六歳)が初代の宮司になられたそうですね。

川野 祖父の偉業を継承したいと思ったのでしょうね。神職の資格を取って昭和四十七年から神社内に住み込んで神事を執り行うようになりました。私は母を手伝ってはいましたが、宮司になるつもりは全くありませんでした。また、母も「継ぎなさい」とは一言も言わなかったのですが、私が知らない間にお膳立てをしていて、いきなり「明日から神職の学校に行きなさい」と(笑)。平成十六年から神職としてお勤めするようになりました。私の娘が今手伝ってくれていますが、継ぐ覚悟はしているように感じます。孫娘は「おばあちゃんの跡を継ぐね」と言ってくれています。このままでは母からずっとこれからも女系で祖父の遺志を継ぐことになりそうですね。

―記念碑と東郷神社の存在は、これからの世代にとって歴史を証明する重要な存在だと思いますね。

川野 今の日本があるのは、先人達が命を懸けてロシアの脅威から日本を守った、という歴史を伝える重要なものだと思いますね。戦後の歴史教育で侵略戦争と教えられた人たちに、「自衛のための」戦争だったことを知ってもらいたいです。それがひいてはアジアなどの植民地化された国々に独立の気概を与えたことも是非、知ってもらいたいと思います。残念なのは、以前は小学校の遠足が多かったのに、最近はめっきり減ってしまったことです。子どもの時の教育が大事ですからね。子ども達には是非、訪れてもらい、正しい歴史認識を持ってもらいたいと切に思います。

 

2015年1月号 竹川

そこが聞きたい!インタビュー

 

「筑豊の炭鉱・石炭王」伊藤伝右衛門の実像を広める

白蓮事件で見せた男の我慢と愛情

 

「金の力で華族の娘と結婚した炭鉱成金」。そうした伝右衛門に対するイメージはずっと定着したままだったが、ここ最近見直される動きが出てきた。炭鉱・石炭王の実像と、白蓮事件の知られざる事実とは…

 

 

日本経済大学 講師 竹川克幸氏(飯塚市幸袋出身) 

 

 

 

虚像とのギャップ

 

 

―最近放映されたNHKドラマ「花子とアン」でクローズアップされた伊藤伝右衛門のキーワードは、「筑豊の炭鉱・石炭王」と「白蓮事件」ですが、意外に伝右衛門の実像が伝わっていないような気がしますね。白蓮事件も当時のマスコミは面白おかしく報じている感じがします。

竹川 二十五歳という年齢の差と、名家の子女と成り上がりの炭鉱王、育った生活環境があまりにも違いすぎたことから、世間の「お金で買った結婚」という見方も含め、好奇の目にさらされたこともあるでしょうね。白蓮の父は伯爵の柳原前光で、白蓮は大正天皇の従姉妹に当たる名家中の名家ですから、伝衛門は身分ではまったく足元にも及びません。そうした名家と縁戚関係を結べるのは、伝衛門にとっては大変名誉なことだったと思います。また、柳原家の方もメリットがあったでしょうね。白蓮の兄・義光が貴族院議員、伯爵会の会長だったこともあり、政治資金が必要だったのも事実で、この結婚は双方何らかの思惑があったのでしょうね。

―実際、二人の結婚生活はどうだったんでしょうか。

竹川 現在、観光名所になっている飯塚市幸袋の「旧伊藤伝右衛門邸」(庭園は国の名勝)を白蓮のために大改装します。白蓮専用の部屋に二階を増築したり、英国製の大理石のマントルピース、ステンドグラス、暖炉、当時は珍しい水洗トイレなどをあつらえたりして、華族出身のお嬢様であった白蓮を下にも置かないような迎え方をしています。また、白蓮のために朝食をパンに切り替えたと言われていますが、これは最近では伝衛門が胃を悪くしたことも理由にあると言われていますが、いずれにせよ伝衛門の白蓮に対する気遣いは相当なものだったようです。

―伝わってくる伝衛門の人物像は、豪放で遊び人というものが多いのですが、実像はどのような人物だったのでしょう。

竹川 筑豊の男達の気質を表現する、俗に言う「川筋気質」のイメージが強いですね。つまり、何事も筋を通し、豪快で義理人情に厚い、男気のある人物評が定着しています。最近亡くなった高倉健さん(中間市出身、父が伝右衛門経営の宝珠山炭鉱で働く)が映画で演じた様な男の中の男のイメージに近いですね。その上、遊び人で、放蕩・贅沢三昧、妾が多くいて、粗野で下品な人物、成金というイメージが定着してしまっていますね。貧乏で小さい頃に魚売りの行商や丁稚奉公に出たり苦労していますから、学校に行っていおらず、無学文盲だとも言われています。そういう出自や育った環境から彼の人物像が語られてきた点も多々あります。詳しく調べてみると、例えば、大の家族思い、人に対する細やかな気遣いなど別の人物像が浮かび上がってきます。父親の伝六が病気に罹ると、船で横浜の医者にまで診察に連れて行きます。途中で亡くなるのですが、葬儀も鳩を放鳥する(放生会)儀式があるなど後の語り草になる様な盛大なものでした。妾に関しては、母親を早く亡くしたこともあるかもしれませんし、御家第一、跡継ぎ確保、家系や一族を保つためには妾や養子縁組みは当然でしたし、政治家、炭鉱主や事業家など当時の男達の甲斐性も含め、料亭や歓楽街・花街での芸者遊びなどは当たり前の風潮でした。今の時代感覚では、単純に理解できないことも多いですね。

―伝右衛門が炭鉱王になるきっかけは?

竹川 西南戦争で、父の反対を押し切り官軍の荷役夫として従軍したことも大きな飛躍につながります。官軍側なのに内心は西郷さんに勝ってもらいたいと思っていたようです。その十年後に父・伝六と一緒に飯塚市伊岐須(いぎす)で炭鉱を開発し、五年後には玄洋社を資金援助する旧福岡藩士家出身の安川敬一郎、松本潜(ひそむ 敬一郎の実兄)と共に相田(あいだ)炭鉱を共同開発、この翌年に勃発した日清戦争で石炭の需要が高まり、業容が拡大していきます。この安川・松本兄弟との交わりも伝右衛門飛躍の背景にあるでしょうね。実際、紹介で士族の娘ハルと結婚しています。伝衛門は小さい頃から魚の行商や石炭掘りを手伝っていて野山を駆け回っていたので、文字通り山勘は鋭かったようです。この後、牟田、中鶴、宝珠山などの中小の炭鉱で事業を展開して、筑豊地区で貝島太助、麻生太吉、安川敬一郎の筑豊御三家に並ぶ炭鉱主・事業家として成功します。

 

立身出世と地域・社会貢献

 

 

―立身出世の典型的な人物ですね。

竹川 先ほど無学文盲と言いましたが、それ故に面白い発言が残っています。坑夫言葉に石炭層を掘り当てたという意味の「着炭」という言葉があります。伝右衛門はそれを目的地に到着したという意味に解していたのか、衆議院議員時代に上京した際、無事に到着したことを地元に伝える電報に「ワレチャクタンス」と打電したことから、「着炭代議士」というあだ名が付いたというエピソードが残っています。後に伝記で「本当は同じく炭坑出身者の蔵内次郎作だったのだが、よか」とも書いてあります。細かいことにこだわらない、大らかな性格でした。また、記憶力に抜群に優れていて、メモしなくても全て頭の中に記憶されていたそうです。的確な判断ができた人物ではなかったでしょうか。

確かに粗野な部分もあったみたいです。「花子とアン」のシーンでも出てきましたが、伊藤邸で平かれたコンサート中にせんべいをかじったのは、伝記にも書いてあるので事実なんでしょうね。そういう面もあったかもしれませんが、茶の湯をたしなむ文化人的な側面も持ち合わせていて、礼節はしっかり身に付いていたのではないでしょうか。また義太夫語り・浄瑠璃などの趣味があり、交友や人脈を広げていったようです。ということは、粗野な人物ではそうした関係は構築できませんから、中々細やかな気配りができた教養のある人物だったことをうかがわせます。こうした武士の嗜みを好んだのは、伝右衛門のルーツは浅井長政の家来で、浅井家が滅ぼされた後に九州に落ちのびてきた家柄だと伝わっていて、そうしたDNAが残っていたのかもしれませんね。また、健康には人一倍気を使っていて、伝記には義太夫語り・浄瑠璃は姿勢を正して、丹田に力を入れて発声するので健康にもいいと言っていますし、胃が弱かったので、食べ物には気を付けていて、八十八歳まで長生きしました。食通・健啖家でもあって、なくなる一週間前にフランス料理のフルコースを平らげたという逸話が残っているくらいです。

―多少、粗野な部分はあるけれども、頭は切れるし気配りも出来て、趣味は多彩、その上、バイタリティ溢れるという、人物像が浮かび上がってきますね。

竹川 そうじゃないと白蓮との結婚生活は十年ももたなかったでしょうね。確かに仕事は忙しく、その上妾もいましたから一緒にいた時間は少なかったかもしれません。しかし、伝右衛門が胃潰瘍で倒れた時に看病したことや歌集の出版援助など歌人白蓮の応援をしていることからも、全く愛情がなかった、ずっと夫婦仲が悪かったということはないと思います。地元の飯塚・幸袋では白蓮のことを口にするのは憚られる風潮が今でもあります。「伝右衛門さんが可哀想だ」という見方が根強く残っていますね。

―地元での伝右衛門人気は高そうですね。

竹川 そうですね。地元の人の間では人気が高く、「伝ネムしゃん」という愛称もあって愛すべき人物だったようです。贅沢・放蕩三昧というイメージとは裏腹に、事業で得た巨万の富を惜しげもなく地域社会に還元しました。嘉穂郡立技芸女学校(現、県立嘉穂東高等学校)の創立に資金を援助したり、伊藤育英会も創設しました。育英会から支給される奨学金は返済の義務がなく、給付された若者は伝右衛門の会社に入社する義務もありませんでした。つまり、「カネは出すが口は出さない」というわけで、優秀な若者を世に送り出そうという心意気を感じますね。給付された若者の同窓会で、「自分が成功したのは自分だけの力ではなく、周囲の人々の力のお陰」といつも挨拶していたそうです。大戦終結までに二百名に近い英才を世に送り出しています。

―いわゆる成金的な感じは全くしませんね。

竹川 お金の生かし方、遣い途をよく知っていたということでしょうね。この他にも、地元の許斐(このみ)神社や太宰府天満宮、宮地嶽神社に鳥居を寄進しています。嘉穂銀行や第十七銀行(現在の福岡銀行)の取締役就任、炭坑機械の製造会社「幸袋工作所」の設立、当時の模範的実験農場「伊藤農園」の開設など地元経済にも大きく貢献しています。こうした地域・社会貢献と事業家としての実力を兼ね備えた伝右衛門は、政友会から衆議院議員に当選してからは、遠賀川の河川改修工事という大事業を実現させます。

―この改修工事というのは?

竹川 遠賀川流域の川筋は洪水も多く、大雨の時に大洪水に度々見舞われ、坑内浸水でおびただしい数の坑が採炭不能になって被害は甚大なものになりました。そこで議員だった伝右衛門が国会で早期実現を力説しますが、日露戦争が勃発したため運動は一時中断しますが、戦争終結後一気に実現にこぎ着けました。現在の遠賀川の流れ、広がった河川敷や、堤防に囲まれ整備された景観が出来上がります。

 

 

実像を掘り起こし、後世に伝える

 

 

 

―宮崎滔天の息子・龍介と駆け落ちした白蓮が世間では同情されて、一方の伝右衛門のイメージはよくないですね。

竹川 白蓮側は新聞紙(「朝日新聞」)上に絶縁状を掲載して、それに対して伝右衛門も反駁文を新聞紙(「毎日新聞」)上に掲載し世間を騒がせます。しかし、その後伝右衛門は沈黙します。大正天皇の従姉妹である白蓮を姦通罪で訴えることもできたのですが、皇室の権威に傷をつけてはならないという本人と周囲の働きかけがありました。そのため事態を素早く収拾するために事件発生わずか十日後に、奥平昌恭伯爵(元中津藩主家、柳原義光伯爵の従姉妹)ら仲介人立会いの下、柳原家と伊藤家の話し合いが持たれます。最近刊行されている「麻生太吉日記」などの記録によれば、麻生太吉・堀三太郎らの仲介・尽力も大きかったようです。その結果、無条件で白蓮を伊藤家から離籍することで合意して、財産処分として、約五万円の衣類・宝石・その他の一切の調度品類を白蓮に贈ることと、土地・家屋・株券など白蓮所有の全部を名義変更して伊藤家に返還することになりました。

あまりにも寛大すぎる処置に、地元では「さすが男の中の男 伝右衛門」と感嘆の声があがり、伝右衛門への同情が集まりました。もう一つ、事態を早期に収拾した背景には、この事件の背後に大正デモクラシーの理論的指導者だった吉野作造東大教授が率いる東大新人会のメンバーがいて、飛び火して炭鉱の労働争議が起きることを懸念したことなどもあったようです。事件が起きて伝衛門の周囲がいきり立って大騒ぎしている中で、「末代まで一言事の弁明も無用」と口を閉ざしたのは、伝右衛門の男らしさの表れです。

 しかし、その後ひと悶着が起きます。最近の西日本新聞朝刊の伊藤伝右衛門の連載・特集記事でも話題になりましたが、それは、白蓮が龍介との間に生まれた子を伝右衛門に黙って籍に入れていたことでした。これも、宮内省などから「認知しておけば姦通罪には問われないから」と説得されて、いったん認知しますが、さすがの伝右衛門もこればかりは飲み込めず、ついに法廷に持込まれます。この時、伝右衛門は「自分の実子ではない」と証言し、それが認められました。しかし、伝右衛門は白蓮を姦通罪で訴えず、これで事件は最終的に収束します。それにしても、白蓮がなぜ龍介との間に出来た子を、絶縁状まで突きつけた伝衛門の実子として届けたのかは、未だに謎です。生活力がない龍介では、養育に不安があったのかもしれませんね。

―それにしても、不倫した相手とできた子を押し付けられたのですから、心中はただならぬものはあったでしょうね。

竹川 心中は憤怒ではらわたが煮えくりかえっていたでしょうね。家族思いの伝右衛門は愛情を白蓮にも注いでいたと思います。そうじゃないと、莫大な財産を彼女名義にすることはあり得ませんからね。それを裏切られたという無念、怒りは当然あったと思います。しかし、一切の弁明をせずに沈黙を守った伝右衛門の態度、生き方は本当に男らしいと思います。ただ、その沈黙が間違った風評やイメージを定着させてしまったことも否めません。新聞は、白蓮を虐げられたヒロイン、伝右衛門は「下品で粗野な成金男」という構図に面白おかしく仕立ててしまい、それが今日まで定着しているのは問題です。戦後も、映画「麗人」で伝右衛門をモデルにした人物を進藤英太郎が演じ、白蓮をモデルにしたヒロインを原節子が演じたことでさらにそのイメージが、大衆に刷り込まれてしまいました。

―そうした伝右衛門の虚像を修正して、ある意味名誉を回復させる必要がありますね。

竹川 テレビのブームで私のふるさとでもある飯塚市幸袋の旧伊藤伝右衛門邸を訪れる観光客も方々が増えたのは大変喜ばしいことですが、残念ながらそのほとんどの方のお目当ては「白蓮が過ごした屋敷」なんですね。主の伝右衛門にはほとんど関心が向いていないのは、非常に残念なことです。本人の書いたものがないので、伝右衛門に関った人々が残した伝記、記録・文献資料を紐解いて、その実像を少しでも拾い出して後世に伝えたいと思っています。『伊藤伝右ヱ門物語』(フジキ印刷株式会社)の著者で伝右衛門を顕彰してきた深町純亮先生(元飯塚市歴史資料館館長)もよくおっしゃっていますが、白蓮事件は、伝右衛門の人生の一コマにしか過ぎず、彼が残した偉大な足跡や地域・社会貢献の面をもっと再評価すべきで、私もその必要性を強く感じます。強くて優しい、日本男児の一つの生き方を体現した郷土の偉人、「筑豊の炭鉱・石炭王」伊藤伝右衛門の実像に迫りたいですね。

 

※写真は2点とも、飯塚市商工観光課提供

 

※平成26年11月9日に開かれた、福岡県地方史連絡協議会(福史連)

筑前地区集会 「筑豊の炭鉱・ 石炭王 伊藤伝右衛門 伝記・記録資料からみる 川筋男の実像」より

 

 

竹川氏プロフィール

昭和48(1973)年飯塚市幸袋生まれ

鹿児島大学法文学部人文学科、同大学院、九州大学大学院人文科学府博士課程を経て、現在アクロス福岡文化誌編纂委員会 編纂委員(専門調査員)、西日本新聞TNC文化サークル講師(ふるさと歴史散歩)、RKBラジオコメンテーター(開店ウメ子食堂)など。専門は歴史学(近世・近代史、福岡県、筑豊の郷土誌、文化誌)。大学では、地域学・太宰府学の「地域再発見・太宰府再発見」を担当。福岡地方史研究会幹事、飯塚市史編集・執筆委員、飯塚市立図書館郷土誌アドバイザーなど郷土誌研究も行う。

編著書 『アクロス福岡文化誌1街道と宿場町』アクロス福岡文化誌シリーズ 海鳥社

『博多謎解き散歩』(中経文庫、角川書店) 『西鉄謎解き散歩』(中経文庫、角川書店)

 

2014年11月号 前泊

そこが聞きたい!インタビュー

 

基地問題を根本から見つめなおしてほしい

もう、「沖縄問題」と言わない方がいい。明らかに「日本問題」なのです。

 

前泊博盛 沖縄国際大学・大学院教授(元琉球新報論説委員長)

 

 

「イデオロギーよりアイデンティティ」。沖縄の基地問題は「日本国全体の問題」として考えるべきだと主張する前泊氏。日米地位協定の密約をスクープした同氏の日米安保観と知事選の背景を聞いた。

 

 

 

沖縄知事選の背景にあるもの

 

 

―十一月十六日に投開票された沖縄知事選では、三選を目指した現職の仲井真弘多氏に十万票の大差をつけて、前那覇市長で米軍普天間基地の辺野古への移設計画に反対を表明した翁長(おなが)雄志氏が初当選しましたね。

前泊 メディアではあまり報道されませんでしたが、裏側には経済界内の権力闘争もありました。沖縄経済界の新興企業の建設・小売の金秀グループ、ホテルのかりゆしグループが翁長氏支持に回った背景には、彼らが国場グループなど戦後沖縄経済を牽引してきた勢力に対する反旗がありました。つまり、仲井真氏が翁長氏に禅譲するだろうと期待していた新興勢力グループが、仲井真氏が三選に出るというのは「話が違う」というわけです。まだ正式な出馬を表明していなかった翁長さんの待望論が高まってくると、仲井真さんは副知事に元々知事待望論が高かった人物を据えました。この人物は、これまでの保守系沖縄県知事の政治哲学や理念のシナリオを書いてきた人です。これは翁長さんに対する一種の牽制球ではなかったかと見ています。ところが、ふたを開けてみると、本人が続投するということになった。仲井真さんの年齢もあったし健康不安説もあり本来ならば、世代交代するべきだったと思います。そのことも地滑り的な翁長さんの圧勝に繋がった一つの要因なのでしょう。

―仲井真さんの「辺野古移設容認」も敗因では?

前泊 昨年は全員が「辺野古移設反対、県外移設」で動いたわけです。沖縄の自己決定権を確保しようという大きなうねりになっていました。つまり、“イデオロギーよりアイデンティティへ”という合言葉の下、沖縄が一つになろうとしていました。その中に当然、知事である仲井真さんも入っているとみんな思っていました。県民大会での発言もそうですし、県内四十一市町村全ての首長による建白書も上がったわけですから、当然と思われました。そのような中で、当時那覇市長だった翁長さんが中心になって、「新しい基地は要らない、オスプレイも撤去せよ。これは政府によるいじめだ、沖縄差別だ」と保革を問わず支持を得ていきました。その中でぽつんと取り残された感じになったのが、仲井真さんでした。

 仲井真さんは、一期目は辺野古容認だったのが、二期目は風を読んで「県外移設」を言及し知事選の争点をぼかした形で再選を果しました。実は仲井真さんは最初から「辺野古ありき」と「カジノ推進」でした。前々知事で県民には絶大の人気があった稲嶺恵一さんは、辺野古移設に消極的でカジノについては否定的でしたから、引き摺り下ろされました。この背景には、経済界の辺野古移設に伴う新たな建設需要や新興予算、インフラ整備など「辺野古移設」を飲めば、これらの要求が全て通るためにどうしても「辺野古移設」を実現したいという希望がありました。その後に擁立された仲井真さんの役割は、この二つを実現することだったのです。

 仲井真さんは二期目の知事選で、当時、民主党の鳩山首相の「最低でも県外移設」という発言で寄り合い所帯の民主党が真っ二つに割れました。仲井真さんはこの時、民主党から「移設反対でもいいが、体を張った反対は止めてくれ。政府から強引に押し切られる形で受け入れる」という密約が、仲井真知事と民主党政権との間で結ばれたという話を聞きました。二期目の知事選挙時の話です。私は、仲井真知事は任期中に「辺野古受け入れ」を決めて、公約に反したから辞任する、というシナリオを想定していました。しかし、結果は受け入れを決めて辞めないどころか続投の意思を表明してしまいます。知事の辺野古受け入れ表明は、思いの外、県民からの反発が強く、県議会でも与党も含めて知事の辞任を求める不信任案が可決されました。自民党の中でも「やり過ぎだ」という声が上がったのです。

知事の受け入れ表明の直前には、沖縄県選出・出身の自民党の国会議員五人が雁首そろえて石破幹事長(当時)から「県外移設を撤回して県内移設を容認にしろ」と選挙で有権者に約束した「県外移設」のマニフェストを、強制的に転換させられた。石破幹事長の横で跪いた沖縄の五人の国会議員の姿は、まさに沖縄県民にとって屈辱以外の何物でもありませんでした。これで沖縄における選挙民主主義の崩壊を意味していました。選挙で選んでも、選ばれても約束したマニフェストが中央の、自民党本部の政治的圧力で簡単に転換させられてしまう。公約が全く意味を持たないという現実を沖縄県民は目の当たりにしたわけです。

―今回の知事選には経済界の翁長支持は権力争いの図、現職知事落選の背景には政府与党の露骨な介入に対する沖縄県民の怒りがあったわけですね。

前泊 現在、集団的自衛権が論議されています。日本国民に想像していただきたいのは、もし尖閣で紛争が起こったら、まず最初に犠牲になるのは百四十万の沖縄県民だということです。先日、台風が二日間沖縄に止まりました。その間、沖縄のスーパーから野菜が消えました。船便が止まって物流が停滞してしまったのです。もし、尖閣に有事が起きたら船が止まり、沖縄の物流は寸断されてしまう。台風の比ではありません。沖縄県民は有事の際にはどうやって食べていけるのか。安倍政権は、そういうことに全く無頓着で、想像力が欠如しています。沖縄戦で十分に犠牲になった沖縄は、もうこれ以上、軍の犠牲になりたくないと集団的自衛権に反対しています。

 

 

分断統治

 

 

―日本の米軍基地の七四%が沖縄に集中しているのは安保によるものですから、憲法九条を改正して自分の国は自分で守る体制にすべきだと思うのですが…

前泊 そもそも、日本では右翼、左翼の定義が不明確になっている。これは、アメリカが占領政策の一環で持込んだ「イデオロギーの対立の構図」が元凶です。アメリカのやり方は、例えば沖縄では銀行、損保、放送、新聞二紙といった具合に必ず競争関係を作って競合させます。それと同様に「保革」の対立を作り出して、占領国のアメリカに矛先が行かないようにコントロールしてきました。つまり、戦後は日本人同士が分断されてしまった。アメリカの「占領政策で唯一成功したケースが日本だ」と言われています。今回の知事選では、イデオロギーで争うのは止めようという一種のパラダイムシフトが起きました。誰のための対立だったのか。オスプレイの配備反対運動をしているのはウチナンチュー(沖縄人)、それを力づくで排除しているのもウチナンチューの警察官。どこに当事者であるヤマトンチュー(日本の本土人)やアメリカ人はどこにも出てこない。日米両政府も日米両国民も沖縄人同士を争わせて、高みの見物を決め込んでいます。これが日米安保の現実です。

安保問題に限らず、原発問題や産廃問題でも同じ構図が出来上がっています。地元民同士が対立し、ぶつかり合い、血を流す。その場に政府や官僚の姿は見えない。福島原発事故、日本各地の産廃処理場問題でも同じです。

 日米安保に関して、沖縄はよく「反米」だと誤解されます。実は沖縄の人々は、戦後、日本で最も長くアメリカと接していて、その影響ももっとも多く受けています。アメリカのロックミュージックや文化、ポーク缶詰など食べ物も大好きなんです。沖縄は「反米」ではなく、「反軍」なんです。

アメリカの海兵隊はその素行の悪さが米本国でも嫌われています。ハワイの基地では海兵隊が帰ってくると、街が緊張感で包まれるとまで言っています。ワシントンのシンクタンクに取材した時に私が「在沖米軍の兵士がもっと素行をよくしてくれれば、沖縄の人々の米軍に対する感情はよくなります」と言うと、「それは矛盾です。軍人がお利口さんになったら戦場で役に立たない。人を殺せと命令されたら、理由など問わず、忠実に実行するのが兵士です。人権を考える人は兵士にはなりません」と平気で答えました。

 基地の経済的な効果も、爆音や演習被害の恐ろしさも両方知っているのが、沖縄です。その上で、「基地は要らない」という人々が増えてきました。基地経済は不経済という事実に気づいてきたのです。返還後の基地の後利用では、雇用は20倍、40倍に増え、経済効果40倍、50倍と膨らんでいる。残念なことに米軍基地返還後の後利用で失敗している事例は一件もないのです。政府が沖縄に基地を集中させる重要性を説くのであれば、もっと丁寧に日米安保の必要性を説明すべきです。政府はいつも「時間がない」と逃げるのです。私は「そんなことはないはずだ。丁寧に説明すれば沖縄の人々は同じ国民ですから、理解しますよ」と何度言っても説明しません。実は政府は説明しないのではなくて、説明できないのです。

―それはなぜですか?

前泊 日米安保体制は、実は占領政策の延長に過ぎない。ところが、保守勢力は日米安保を堅持すべきだと信じ込まされている。この国の保守とは一体誰のための思想運動なのか。以前、米兵による少女乱暴事件の時、右翼の街宣車が取り囲んだのは、琉球新報や沖縄タイムスの社屋でした。米兵犯罪を糾弾するメディアに矛先を向ける。「矛先が違う。向けるべきは日本の少女の人権を蹂躙した米軍ではないのか」と憤ったことがあります。また、沖縄は戦後一貫して保守の島で、復帰後も42年のうち28年間は保守県政です。国会議員もずっと保守・自民党が過半数を占めてきた。本土の保守やメディアは「左翼の島」「革新の島」だと決め付けていますが、事実を無視しています。単に無知なだけかもしれません。

―こちらに伝わってくるのは、沖縄の基地反対運動はいわゆるプロ市民といわれる活動家だと。

前泊 確かにプロ市民もいます。しかし、それはごく一部です。プロ市民だけで、今回の知事選の10万票の大差は生まれません。そもそもプロ市民だからダメという理屈もおかしい。政府・自民党は、丸腰の住民運動を機関銃や大砲を積んだ巡視船や軍艦(海上自衛隊掃海母艦)で脅し、制圧してくる。強権的な政治による住民運動の制圧という点では、中国共産党を批判できません。

知事選挙が終わって、辺野古反対の知事が誕生した今、今後の沖縄の基地問題の核心は普天間問題にとどまらず、最大の争点として米空軍の嘉手納基地の軍民共用や返還問題も浮上してくると思います。嘉手納飛行場に比べれば、普天間飛行場など付随施設の一部にすぎません。ましては、辺野古新基地など、嘉手納がなければ、何の意味も持たない。沖縄県民も、嘉手納飛行場の返還は困難だとずっと思ってきました。しかし、時代が変わって、基地を返還させて沖縄経済の発展の起爆剤に使おうという発想が、確実に広がってきています。今度誕生した翁長新知事も新基地には反対していますが、嘉手納など既存基地には反対していません。それも「保革の枠組みの限界」「保守・革新政治家の限界」ともいえます。これは、これまでの沖縄の政治家たちの思想的、発想的限界だとも言えます。

名護市の稲嶺市長も「新しい基地は作らせない」というけれども、既存の基地には全く言及していません。新しい基地の建設に反対だけでは本質的な解決は不可能です。既存の基地にも言及していかなければ、沖縄の基地問題の抜本的な解決は困難です。既存の基地の容認は、結果として沖縄に過重な基地負担を強いる現状の日米安保体制を追認することになるからです。

―既存の基地は施設が更新されていますね。

前泊 普天間基地を撤去する、返還すると言っておきながら、新しい施設がどんどんできています。米軍の司令官は、「辺野古ができても普天間は返還しない」などと平気で言いますよ。そういう本音を引き出す日本の政治家がいないのです。普天間問題に象徴される日米安保問題を解決しようという政治家は、日米には皆無だと言えます。

 

 

集団的自衛権の非現実味

 

 

―沖縄の施政権が日本に返還されてもう四十年以上の歳月が過ぎています。

前泊 今、復帰前後の研究を進めています。沖縄の施政権返還を実現した佐藤栄作首相がなぜ沖縄返還に執着したのか。それは、前政権の池田勇人内閣が所得倍増計画で成功しているので経済政策では自分の名を残すことが出来ない。そこで目を着けたのが沖縄でした。ただ、それだけです。政治的功名心でしかなかった。沖縄返還を佐藤政権最後の年の1972年に目標年次を設定し、タイムリミットを設けたがために、アメリカに揺さぶられて、多くの密約を結ばされてしまいました。ちなみに、返還交渉を始める最初の会議で、佐藤首相は何と言ったか。「ところで、沖縄は英語を使っているのか」というものでした。その程度の認識しかもっていなかったのです。その意識が今も継続されていて、安倍政権はサンフランシスコ講和条約が発効した一九五二年四月二十八日を昨年、「主権回復の日」として政府主催の記念式典を開催しました。沖縄、奄美、小笠原が日本から切り捨てられた日を、よりによって「完全なる主権が回復した日」と明言したのですから、沖縄、奄美、小笠原は日本ではないと認めたのも同じです。さっそく、中国メディアは「そろそろ沖縄の所属について本格的に論議を始める時期がきた」と立て続けに報じました。安倍政権の浅はかな歴史認識が、余計な波紋を中国に広げるきっかえになりました。慌てた安倍政権は「主権回復の日」を、なかったことにして、今年から式典の開催をとりやめました。

―歴史認識の甘さがありますね。

前泊 その甘さが、現状認識の甘さに繋がっているとしか思えません。安倍さんはこの主権回復の日を祝って何をやりたかったのか。五二年四月二十八日まで、敗戦で失ったために日本には主権がなかった。だから、その五年前の一九四七年に施行された現憲法は無効であるという、いわゆる廃憲論を持ち出したかったかもしれません。それはあまりにもやり過ぎです。そして今度は憲法を無視して、集団的自衛権を閣議決定しました。中国、韓国に対して反発を買っているのは、こうした誤った歴史認識に基づく発言や政策によるものも大きいと思います。こうした安倍内閣の暴走に自民党内部からも反発する声が上がっています。先日、沖縄で自民党の重鎮である野中広務氏が「安倍君はおかしい。集団的自衛権をやる前に中韓のトップと直接会いに行って、話すべきだ」と批判していました。

集団的自衛権で「日本を守るために戦っている米軍を、日本が支援できないのはおかしい」との理屈を立てています。でも、いったいどこの国が米軍に手を出せるのか。現実的にはありえません。アメリカが日本人を助けるために米軍を出動させることはありえないし、米軍の軍艦が攻撃されるような事態もありえません。仮に米軍に手を出す国があったら、倍返しどころから百倍返しされますよ。

 また、この議論には経済的な視点が欠けています。例えば、中国の場合、尖閣で日本が国有化を言った途端に「愛国無罪」の大規模デモが起きて日系企業にどれだけの損害が出たか、記憶に新しいところです。また、経済的に中国との関係を無視して突っ走ったらどうなるか。中国との貿易額三十兆円、アメリカが二十兆円です。安倍さんは同盟国のアメリカを取るべきだと主張していますが、経済学や経済安保の観点から言えばアメリカも中国も両方とも取るべきなのです。二者択一の問題ではありません。どちらも取らないと日本の経済は成り立たない。それなのに、軍事安保しか頭にないと、経済安保をないがしろにする。福田康夫元首相は安倍さんの動きを危ないと感じて、懸命に水面下で中国にアクセスしてきました。村山富市元首相も両国の関係を心配して韓国を訪問しています。自民党政治はこれまでバランスがいい外交をやってきたのに、安倍政権ではそのバランスが崩れてしまっている。そのことに危機感を抱いた歴代首相や自民党要人らが動き始めている。一部には安倍政権の倒閣運動も始まっているようです。

―その同盟国のアメリカをどう見ますか?

前泊 問題になっている「イスラム国」を今、世界中の若者が支援し始めました。アメリカ国内でもそういう動きが出てきて、今後国内でテロが頻発する危険性が出てきました。親を殺された子の怨みはずっと消えません。そうした怨恨の連鎖の種をアメリカは撒き散らしてきた、こうしたアメリカの軍事安保はもう限界に来ています。同時にアメリカの経済力にも限界が来ています。いい加減にこの連鎖を断ち切らなければ、悲劇は起こります。

―それを象徴しているのが、沖縄問題ですね。

前泊 もう、「沖縄問題」と言わない方がいいですね。問題の根元を沖縄に封じ込めて矮小化しています。米軍基地問題は、沖縄問題ではなく、日米安保、日米同盟の問題であり、日本の外交力の問題であり、明らかに「日本問題」なのです。

 

「受益と被害の分離」

 

 

―とは言っても、沖縄の人々中にも「基地はあってほしい」と思っている人はいると思うのですが。

前泊 例えば、軍用地地主の借地料は年間平均二百万円、高い人で二十六億円とも言われています。地主の数はかつて二万五千人だったのが、今では相続などで四万四千人までに増えています。借地料は米軍分が八百億円、それに自衛隊分の百億円がありますから借地料の総額は九百億円になります。この地主の家族を入れると地主有の有権者はざっと二十万人、沖縄知事選の当選者の獲得票数が三十万から三十八万票ですから、この地主の基礎票はかなり大きいですね。それから建設業界の就業者数七万人とその家族票が加算されますからね。基地に依存している人たちはまだ多いのも事実です。

 これは、一種の「受益と被害の分離」策だと言ってもいいでしょう。今の軍用地主たちはかつて農地を強制的に収用された被害者でしたが、今は受益者になって基地から離れた所に住んでいます。一方で、フェンス一枚隔てて土地を持っている人たちは、基地被害もあり、土地も売るに売れず、基地周辺から住宅も移るに移れず、爆音などの被害者になっています。戦前の沖縄は、七五%の人が農業に従事していました。それが、捕虜収容所に収容されている間に、農地の大半を基地に奪われてしまった。生産、生活の場を失った農民たちは、農地の後に作られた米軍基地に依存するしか生きる道はなかった。沖縄の基地依存経済は、そこから始まっています。基地に依存させて、基地依存経済という麻薬漬けにしたあとで、振興策はいらないのか、基地はいらないのか、と県民を揺さぶる。あまりにひどい仕打ちに、目を覆いたくなります。これが、日本の保守本流の政治手法です。恥ずべき行為です。

―基地は無い方に越したことはないが、その後はどうするのかという切実な問題を抱えていますね。

前泊 基地に依存せざる得ない経済を作っておいて、基地を無くす、無くさないという議論がずっと続いています。これも、ある意味罠にはまってしまった感があります。普天間問題に縛られて、本丸である安全保障問題、その最大の争点になるべき嘉手納問題が二十年間、蚊帳の外に追いやられました。普天間にこだわっている限り、沖縄、日本の問題は解決しません。基地を縮小するようなレトリックに皆踊らされています。普天間も辺野古もどちらも要らないのにいつのまにか「移設か、危険の継続か」という二律背反の選択を迫られている。論理のすり替えです。沖縄にとっては、残しても移設してもどちらも苦しみが生じます。そんな究極の二者択一の選択を、迫る政府の姿勢に、沖縄県民が辟易している。そんな政府や政策を選んでいる本土国民に反発しているのです。

―基地経済から脱却して自立した経済を目指すべきだと思うのですが、失業率は依然高いですね。

前泊 沖縄の失業率は日本の平均の倍の数値で推移しています。しかし、復帰前は実は日本平均の半分にしか過ぎなかったんです。つまり、沖縄の今の失業率の高さは、政府の沖縄返還・復帰プログラムの失敗によるものなのです。基地を維持するために基地従業員を大量解雇されたことと、ドルから円に切り替える時に円高に誘導されたために経営者たちが先行き不安を感じ採用を抑制してしまいました。

―日本の国防という観点から言えば、国境であり中国の脅威がある沖縄は重要な地域だと思うのですが。

前泊 そこが、日本人が世界の動きに疎い点だと思います。例えば、冷戦終結後EUは冷戦時の半分まで軍事費を削減してきました。これはEU圏内で集団安全保障体制を構築してきたからなんです。それをなぜアジアはやれないのか。それはそれを妨害する動きがあるからです。イギリスの首相は「アジアの民度は低いから武器が売れる」と平気で発言しているくらいです。

―いずれにしても、沖縄の問題は日本の問題であると日本人全体が思いを馳せるようになることも必要だと思います。

前泊 やはり、これまでの「左翼・右翼」「保守・革新」のイデオロギー闘争からいい加減に脱却して、もう一度、歴史や事実、現実を検証し直す時期ではないでしょうか。今回の沖縄県知事選は、イデオロギーよりアイデンティティへの回帰を呼びかけた結果ですが、日本全体もやるべきだと思いますね。それなのに、「沖縄問題は普天間問題」と矮小化してしまう。これは、今の日本人の限界なのかもしれません。普天間問題は日本の自衛隊ではなくアメリカの基地の問題です。アメリカの基地を作るのに、日本国民が莫大な税金をむしり取られた上に、建設の是非を巡って長年対立し、やがて戦艦まで投入して国民に大砲や銃を突き付けて建設を強行し、日本人同士が血を流しあわなければならない事態まで生まれようとしている。どうしますか?アメリカはカネも出さない、人も出さないのに、日本人同士が衝突しあっている。アメリカが本当は必要ともしない新基地のためにです。この現実を日本人全体で真剣に論議してほしい。

 

 

 

前泊氏プロフィール

1960年生まれ。「琉球新報」論説委員長を経て、沖縄国際大学大学院教授。2004年、地位協定取材班キャップとして日本ジャーナリスト会議(JCJ)大賞、石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。著書に「沖縄と米軍基地」(角川書店)、「もっと知りたい!本当の沖縄」(岩波書店)、「本当は憲法より大切な『日米地位協定入門』(創元社 編著)などがある。

 

 

2014年9月号 佐々木

そこが聞きたい!インタビュー

 

日米同盟という「線」から「面」への展開で抑止力の強化を

ワシントンから見たリアルアメリカとリアルポリティック

 

産経新聞社 西部本部副本部長 九州総局長 佐々木類氏

 

 

格差がますます拡大し疲弊するアメリカ、そして冷戦終焉後変質しつつある日米同盟。そのリアルな姿と実態をワシントンでの取材活動の経験を通してリアルに語ってもらった。

 


アメリカの混乱

 

 

―まずアメリカの現状について。アメリカは格差社会がますます酷くなっているという感じがしますが、実際はどうですか?

佐々木 二〇一一年秋ごろ、格差社会を批判する「ウォール街を占拠せよ」という大運動が起こり、首都ワシントン中心部の公園もテントがずらりと並びました。それから数カ月間は続いたのではないでしょうか。発端はカナダの雑誌の創刊者の呼びかけでした。彼がツィッターやSNSで呼び掛けるとものすごい数の参加者が集まりました。それだけアメリカの格差社会に対する国民の不満が大きいということでしょう。

上位一%の富裕層が国全体の富の二〇%、一〇%の富裕層で国の富の半分を占めています。中間層の地盤低下も著しく、一九六五年のCEO(最高経営責任者)と従業員の給与格差が二十四倍だったのが、二〇〇三年には百八十五倍、現在は五百倍という試算があり、格差が急速に開いています。

―そうしたものすごい格差社会をどう見ていますか?

佐々木 財政難が続き、にっちもさっちも行かない状態でいつまで経っても格差は是正できない。そのような厳しい現実の中で、オバマ大統領はばら色の演説ばかりで実行力が伴わないために国民の間に欲求不満、ストレスが溜まり爆発したのだと思います。時を同じくして盛り上がったのがティーパーティー(茶会)運動です。18世紀、米北東部のボストンで、英本国に対して植民地人が、「代表なくして課税なし」と訴えたボストン茶会事件から命名されたものです。この団体は二〇〇九年に活動を始めた当初は、「小さな政府」を訴える細々とした運動だったのですが、次第に勢力を増してきました。国家は個人の資産、所得にできるだけ関与すべきではない-というのが彼らの主な主張です。

―一時期、共和党と共闘を組んでいましたよね。

佐々木 今も連携している議員は少なくありません。選挙区ごとに事情はそれぞれですが、緩やかな連合体である茶会運動はもともと、リーダー不在の保守系中間所得層が多いといわれ、民主、共和どちらの支持でもない、連邦議会に対する政治不信から巻き起こった運動です。何より茶会運動は、オバマケアという医療制度改革(いわゆる国民皆保険制度)に代表される、リベラル左派的な施策にこだわる米国初の黒人大統領の誕生に伴う副作用だとみています。

共和党議員も最初は集票マシンとして茶会を利用した面もありましたが、次第に立場が逆転し、茶会の言うことを聞かない現職議員が党内の予備選で対立候補を立てられて落選するという状況が相次ぎました。そうした恐怖感が議員サイドにもあったのでしょう。対民主党で歳出削減の強硬論を主張する茶会に引きずられる形で民主党と対立を深めた結果、昨年十月、予算未成立で連邦政府の閉鎖が現実のもとなってしまいました。批判の矛先が共和党に向かったため、事態を重視した共和党指導部は茶会と距離を置き始めたのですが、下院ナンバー2のエリック・カンター院内総務が今夏、党の予備選で茶会がかついだ無名候補に敗れるというショッキングなことが起きました。

これに対し、迷走気味の共和党相手でも、敵失を利用できずにジリ貧状態なのがオバマ大統領です。彼は彼で、政治家としての経験と力量不足がいつまでたっても克服できないでいるのが現状です。

 米国には今、事実上、二人の大統領がいるようなものです。もう一人の「大統領」は、共和党のジョン・ベイナー下院議長です。名誉職の色合いが濃い日本の衆参両院の議長職と違い、米国の下院議長は大統領に匹敵する権力を握っています。加えて、現在の米議会は上院が民主党、下院で共和党がそれぞれ多数派を占めていて、ねじれ現象になっています。驚くことに、オバマ大統領はこの過酷な政治状況について、頭で分かっていても、理解できない、いや、理解しようとしないでいるかのようです。

オバマ大統領は、日本で例えるなら、市民運動家をスタートとした菅直人元総理にその政治スタイル、思考回路は近いのではないでしょうか。彼の政治経験はイリノイ州上院議員三期と連邦議会の上院議員を少々といった感じで、政治経験がほとんどないまま大統領になってしまったのが、彼にとっても米国民にとっても不幸の始まりでした。

重要政策をめぐる水面下での調整、コンセンサス作りは、政治のイロハです。彼はそれを全く分かっていないとしか思えません。彼は右手に大統領拒否権、左手に大統領令、これさえあれば何とかなる-と妥協する気はまったくないようにみえます。調整、根回しという発想がないのです。デフォルト危機、連邦政府閉鎖の原因になった債務の上限問題に直面した際、オバマ大統領はホワイトハウスにベイナー、カンターなどの共和党の実力者を呼びつけて何をやったか。本来ならば落とし所を模索すべきなのですが、彼は「どうして私が言っている事が分からないんだ。なぜ私の言うことがきけないんだ」と、そればっかりです。大統領が二人いることに気付いていない、調整による妥協を知らないから政治がいっこうに前に進まないのです。

―日本の民主党政権時代よりもある意味、深刻ですね。

佐々木 全くそうなんですよ。中南米やアフリカの小国であればまだしも、いまだに外交・軍事・経済など多方面で世界に大きな影響力を持つ超大国アメリカの実態がこれだから、同盟国や関係国もいい迷惑です。今の米国の頼りなさの元は、オバマ大統領という政治家の特殊性に尽きると思います。確かにリーマンショック後の経済的ダメージとイラク、アフガニスタンという2つの戦争による疲弊も国力低下の要因の一つでしょう。それ以上に、言葉だけが先行して結果を残せないオバマ大統領の存在自体が、閉塞感の根源となっている側面が大きいとみています。それだけ今の米国は異常であり、逆にポストオバマ次第では状況ががらりと変わる可能性もあります。ただ、次の大統領選まであと2年3カ月以上もあり、わたしならずとも、「勘弁してよ」という空気が米国内にも充満しているようです。

―それにしてもこれからのアメリカはますます格差が広がりそれに伴い国力も低下すると見てもいいですか?

佐々木 先ほど中間層の地盤沈下と言いましたが、今や中間所得層が、貧困層に落ちてきています。それを裏付けるデータとして、中間所得層の年間の家計収入が二〇〇〇年には七万三千ドルあったのが二〇一〇年には六万九千五百ドルに現象しています。純資産も二〇〇一年には十三万ドルあったのが二〇一三年には九万三千ドルに目減りしています。中間層の八五%が「今の生活を維持できない」と答えています。ルーズベルト大統領時代のニューディール政策のような抜本的な政策転換、特効薬はないということで仰るように格差は広がるばかりだと思います。

 ただ、近い将来、シェールガス革命が起き、米国も石油の巨大輸出国になれば、経済・財政的にも軍事的にも劇的に復活する可能性はあります。弱ったとはいえ、科学技術分野でも世界の追随を許さない米国の底力から目を離すことはできません。

 

 

目の前の危機

 

 

―国力が低下しつつあるアメリカとの同盟関係ですが、冷戦構造が終焉してきた頃から、アメリカの日本に対する要求が厳しくなってきた感じがします。

佐々木 その典型的な例がTPPですが、これは二国間の経済問題というよりも、対中国をにらんだ安全保障的な意味合いにその本質があります。つまりTPPは貿易協定を足がかりとして、日米同盟という「線」だけではなく、多国間という「面」を形成して中国に対する安全保障を展開する枠組みと受け止めています。日本ではTPPへの参加の有無をめぐって議論が百出していた2012年ころ、国務省のズムワルト国務次官補代理はワシントン市内の講演で、「TPPは対中安保の枠組みである。日本にはTPPに参加する以外に選択肢はない」と述べて、同盟国とはいえ内政干渉かと思えるほど踏み込んだ発言をしていました。

―とは言え、防衛では相変わらず米軍頼みのままで憲法改正もまだ見えていませんね。

佐々木 憲法九条を改正するのが筋だと言う声もあります。実際、現行の九条がどれだけ防衛力整備の足かせになっているか図り知れません。一方、中国やそれに呼応する国内の「反日」「反戦」勢力は、九条を改正すると戦前の軍国主義に戻ると声高に叫びますが、彼らにそれを言われる筋合いはありません。

戦後70年、平和、民主国家としての日本の歩みこそ、評価されるべきです。注意しなければいけないのは、保守を装って憲法改正を主張する人たちの中に、憲法改正が実現不可能とみて、実質的に集団的自衛権行使の容認やそれに伴う法整備を妨げる狙いをもつ向きが少なからず紛れ込んでいることです。

また、憲法解釈の変更を批判する声もありますが、集団的自衛権行使の容認に関する議論ですら、何十年かけてきたと思っているのでしょうか。尖閣諸島が獲られそうになっている、日本人が拉致されているという、まさに今そこに、目の前に危機があり、新たな危機が迫っているのに、憲法改正の神学論争をいつまでもやっている場合ではないはずです。現実を直視できず、自らの安全保障を軽んじる国家は、必ず滅亡します。中国に弾圧され続けるウイグル、チベットの悲しい現状をみれば一目瞭然です。

―リアルポリティック(現実的政治)では憲法解釈の変更は必要だと。

佐々木 当然です。誤解している方が多いのですが、日本の戦後政治史は、憲法の解釈変更の歴史そのものといえます。今回が初めてではないのです。

例えば、1946年、吉田茂首相は自衛権を否定する国会答弁をしていますが、50年にはそれを認める答弁に転じています。これこそ戦後最大の憲法解釈の変更です。解釈改憲に加えて、平時と有事の狭間にあるグレーゾーンと言われている、これも例を挙げると、離島への他国の武装漁民の上陸をどうやって排除するか-。現在、法律が現実に追いついていないため、いち早く関連法を成立させる必要があります。

 子どもだって、成長すれば服が小さくなり、新しい服に着替えるでしょう。憲法は生き物です。改正であれ、解釈変更であれ、周囲の安全保障環境の変化に合わせていくのは当然だと思います。

―もう一度日米同盟に話を戻しますが、同盟は当然アメリカの国益のためのもので、それが日本の国益と完全に一致しているかどうか、疑問があるのですが。つまり、アメリカの国益の為に日本がつき合わされているように感じます。

佐々木 アメリカが国益を最優先させるのは当然で、日本も国益を最優先させようとするのは、主権国家なら当たり前の話です。経済交渉で両国がぶつかるのも当然で、実際TPPでなかなか妥結しないのはその現われです。両国の間で一致しているのは、中国のような異形の大国、北朝鮮のような粗暴な国がある限りは、日米同盟を主軸にオーストラリア、フィリピン、インド、タイなどと連携し、日米両国だけのバイ・ラテラル(2国間)の「線」による同盟から日米同盟を基軸に、マルチ・ラテラル(多国間)の「面」に広げて抑止力を強化しないと、こうした国の野心を封じることは難しくなります。「われわれに手を出したら、逆に痛い目にあうぞ」と思わせて、相手の軍事的冒険心を諫める積極的な抑止力をいち早く構築すべきなのです。

―米国の対中戦略については、実はペリーの時代から野心があったのではないかと見ています。ペリーは浦賀に来る前に当時の琉球を訪れています。先の大戦でも沖縄をまず獲りにいったのは、中国への布石ではないかと。つまり、日本が反中意識一辺倒でいる合間にアメリカは中国と手を結ぶ可能性もあるのではないかと思います。

佐々木 米中ですが、自由民主主義の国と、共産党一党独裁国家ですから、基本的には相容れないでしょう。日米同盟は揺らぎませんが、外交上の駆け引きで、梯子をはずされる可能性はいつでもあります。ニクソン訪中やクリントン大統領のジャパン・パッシング、2009年秋のオバマ大統領訪中1週間などはいまでも鮮明に覚えている方も多いと思います。

特に、オバマ政権1期目で、米中が蜜月になったのと、ルーピー鳩山元首相が米国抜きの東アジア共同体、普天間の県外移設-などと言い出して、反米的な姿勢を取りだしたのは偶然ではないとみています。

ニクソン大統領以来、米国の中国への関与政策は「国際社会で中国が大国として責任を果せるように導く」ということで一貫していました。ブッシュ政権時の国務副長官で後の世界銀行総裁になったゼーリック氏が中国を「ステーク・ホルダー(責任ある利害関係者)と呼んで大人扱いしたのもこの一環とみていいでしょう。オバマ政権になると、アメリカメディアは「G2」「G2」と「米中新時代」の大合唱で、あたかも中国が、国際社会の一員として付き合うことの出来る、アメリカのカウンターパートナーのように中国を持ち上げました。

オバマ大統領は訪中して米中両国の「核心的利益をお互いに尊重する」という共同宣言に署名し、すっかり中国のペースに乗せられてしまいます。しかし東シナ海上空に、一方的な防空識別圏を設定するなど、さすがのオバマ大統領も、中国がどんな国なのか、ようやく気付いたようですが、遅すぎます。

 その中国ですが、習近平国家主席の強硬一辺倒の外交政策の失敗が徐々に明らかになりつつあります。南シナ海では「戦争も辞さない」というベトナムの決意の前にあっさり石油の掘削作業から撤退しました。今年五月に開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)外相会議は一致して、力による現状変更を試みる中国への懸念を表明しました。これは、安倍首相が主導してきた中国包囲網が構築されつつある証でもあります。こうした事実と、党内序列9位の大幹部だった周永康の失脚は、無関係ではないでしょう。習近平が、外交の失敗を権力闘争で巻き返す・・・十分あり得ることです。

 大統領補佐官などの回顧録によれば、オバマ政権が中国の正体を目の当たりにしたのは、二〇〇九年十二月にコペンハーゲンで開かれた国連気候変動枠組み条約締結会議(COP15)といいます。訪中した数週間後のことです。米国の協力要請にもかかわらず、温室効果ガス排出世界第一位の中国の身勝手な振る舞いでした。訪中して中国ペースの共同声明を出し、足下をみられたオバマ大統領は対中方針を転換し、二〇一〇年には台湾への武器売却を決めます。これは中国の反対にあって最大の焦点だった最新型F16戦闘機の売却を見送りました。その後、人民元の不当操作疑惑、南シナ海、東シナ海での挑発的な行為が常態化してようやくオバマ政権は正気に戻って、クリントン国務長官が「G2は幻想であり、G2なんてものはない」と明言するまでになりました。

―日中戦争時の援蒋ルートもあったし、米中が手を組む懸念はまだあると思うのですが…

佐々木 経済的な依存関係は深まっても、対日政策で政治的に手を組むことはまず、あり得ないでしょう。ただ、確かに米国は中国に対して、歴史の浅さからくる、ある種の負い目は持っていると思います。知的財産をめぐる米中貿易交渉でも、中国側が「羅針盤、火薬、紙、印刷すべてはわれわれが発明したが、どの国にも特許料を要求したことはない」と大ボラを吹いた際、米国代表団は押し黙ってしまったという有名なエピソードがあります。

また、案外知られていないのが、現在の中国共産党政権の基礎を作ったのが今の米中央情報局、CIAの前身であるOSSだという歴史的事実です。ホー・チ・ミンにも武器供与や戦闘訓練で協力して対日武装勢力に仕上げています。この他にもフセイン大統領やビン・ラーディン等々支援してもそのフォローアップを怠る米外交の悪い癖なのか、面倒を見た相手、表現は悪いのですが、「飼い犬」に手を噛まれるのが、深謀遠慮に長けたイギリスなどと違った、米国のやり方と言えるかも知れません。

米国内に根を張る親中派の影響なのか、オバマ政権内には安倍首相への懐疑的な見方もくすぶります。例えば、昨年暮れ、安倍首相の靖国参拝についてオバマ政権は「失望した」とまで表明し、中韓両国を小躍りさせました。もっともこの後の世論調査で、日本国民の過半数が支持しているという結果にホワイトハウスは驚いて、参拝批判がピタッと止まりました。

米国は、民主主義の代表選手のような国ですから、世論調査をかなり重視していて、このまま安倍首相への批判を続けると、反日宣伝を繰り返す中国、韓国を喜ばせてしまうだけでなく、多くの日本国民を敵に回すことになる、という危機感があったからとみています。

 

面展開で抑止力強化を

 

―安倍首相が訴える「戦後レジームからの脱却」の基底には、日本がいつまでも敗戦国であるということを意識している、あるいは意識させられていることから脱却すべきだという主張だと解釈しているのですが。

佐々木 自虐的な東京裁判史観からの脱却が念頭にあるのだと思いますが、それは何も、サンフランシスコ講和条約以降の世界秩序をひっくりかえそうとしているわけではありません。オバマ政権内にも、ワシントンで反日宣伝に力を入れる中国や韓国の口車に乗せられて、安倍首相の狙いに疑念を持つ向きがあるのは事実です。しかし、安倍首相はあくまで、日本人の祖国を愛し、祖先を敬う-という日本人自身が古来より持つ、伝統的な道徳心を育もうとしているのだと思います。

―そうした日本人が持っていた精神性を取り戻した上で、それまで戦勝国の枠組みの中心的組織である国際連合の常任理事国入りを果たすべきではないでしょうか?

佐々木 これは米国も歓迎しています。敵国条項を削除した上での常任理事国入りを目指すべきだと思います。反対しているのは、中国と韓国だけではないでしょうか。

国連常任理事国入りも大事ですが、「地球儀を俯瞰した外交」(安倍首相)の成果も目を見張るものがあります。先日、安倍首相はオーストラリアを訪問しているのですが、共同記者会見でアボット首相が、「日本を公平な目で見て欲しい。戦後ずっと日本は模範的な国際的市民であり続けた。そのことは評価されるべきであり、七十年以上前のことで裁かれるべきではない」と語りました。

直前に習近平国家主席が「日本は戦前に回帰している」と悪意のある発言を繰り返しているのですが、これを意識したのは間違いありません。

―極東裁判で日本の戦争責任に対して強硬派だったオーストラリアの発言は確かに重いし、心強いですね。

佐々木 中国を最大の貿易相手国とし、両国経済関係に影響を与えかねないにもかかわらず、日本を公平な目で見たアボット首相の発言は大変な重みがあります。わたしは、安倍首相が掲げる「積極平和主義」、すなわち、日米同盟を強化する中で抑止力を高め、国際社会の平和と安定に貢献していこうという外交方針を支持しています。長期的、対局的な戦略を欠いて来た日本ですが、国家百年の計である安全保障・外交戦略を間違ってはいけません。戦略ミスは戦術では補えないからです。

―そうした中で日本のあるべき姿は?

佐々木 先ほども申し上げましたが、わが国は日米同盟という「線」から、多国間という「面」での安保体制構築を目指さねばなりません。

自由と民主主義、資本主義という普遍的な価値観を共有できる国々と連携することこそ、わが国自身のみならず、地域の平和と安定に資すると考えています。日本はこれまで以上に、「今そこにある危機」を直視するリアルポリティックに徹していかねばなりません。日本にはそれができるだけの高い潜在能力があると確信しています。

 

 

佐々木氏プロフィール 1964年 東京生まれ、早稲田大学教育学部卒 1989年、産経新聞入社後、政治部で首相官邸、自民党、野党、外務省各キャップを歴任。この間、米バンダービルト大学公共政策研究所客員研究員 2006年 政治部次長、副編集長 2010年 ワシントン支局長 2013年 論説委員(政治、外交・安全保障) 2014年7月から現職

2014年8月号 西表

そこが聞きたい!インタビュー

 

“沖縄戦はまだ続いている”

主権回復こそが沖縄県民の願いだ

 

 

 

西表宏  福岡沖縄県人会会長(香蘭女子短期大学ライフプランニング総合学科教授)

 

 

六十九回目の終戦の日を迎えた。

沖縄の人々は何を思っているのか。聞きづらいか、正面から聞くことが歴史の記憶の風化を防ぐことになる。

 

 

「もうお金ではつられない」

 

 

―本土の人間からすると、沖縄の基地問題に関しては正直なところ当事者意識が希薄だと思います。現在、首長選挙で辺野古への基地移転問題が最大の争点になっていますが、沖縄の人から見たこの問題について率直な意見から聞かせてください。

西表 こうしたナーバスな問題については県人会としては意見を取りまとめたことはありませんし、今後もその予定はありません。なぜかと言うと、どうしても賛否で意見が真っ二つに割れてしまうからなんです。基地経済で生活している人、反戦平和を心に描いている人と、同じ沖縄県人でもこうしたテーマで意見を交換するとどうしても対立してしまう傾向にあります。あくまでも県人会は親睦団体ですから、そういう議論は極力しないようにしています。沖縄県人は平和を愛する人々ですから、表立って声は上げませんが「我慢できない」という心情があると思います。九五年の沖縄米兵による少女暴行事件の時は沖縄県民全員が怒り狂い、抗議の声をあげました。あの時は県人会としても声を上げましたね。

 ここのところ面白い現象が起きています。これまでは普天間の米軍海兵隊基地の入り口では「米軍基地反対」の声しかなかったのが、最近は「ウェルカム米軍」という声も出始めてきて真っ二つに割れているようです。こうした矛盾に対して我々県人会としては戸惑いを隠せませんね。

―県人会としての発言は難しいと。それではご自身の考えはどうですか?

西表 私は絶対反対です。鳩山元首相の普天間の「最低でも県外移設」という発言は、当時沖縄県民に大きな勇気を与えてくれました。それまでは辺野古移設を仕方なく押し付けられていて、(県外移設を)おしやるとかを言ってはいけないという空気が漂っていましたが、あの発言で「言ってもいいんだ」という空気になりましたね。これをきっかけに沖縄差別という表現も出てきました。我慢ならないのは、補助金、交付金などの飴を与えていれば沖縄県民は黙っていると思われていることです。よく考えてみれば、私たち国民の税金ですから交付されるのは当然なんです。そうした沖縄県民の神経を逆なでしたのが、先日行われた名護市長選での石破茂自民党幹事長の補助金発言でした。その結果、辺野古移設反対派の候補が勝ったのは沖縄県民の真意だと思います。ところが一方では石垣市長選で陸上自衛隊配備に柔軟な姿勢の候補が勝ちました。

―今年十一月の知事選は大きな転換期になりそうですね。

西表 現職の仲井眞知事が出ることになりそうで、基地移設反対派の那覇市長の翁長雄志(おなが・たけし)さんが出馬するようですが、面白いのはこれまで保守を支えていた経営者団体が翁長さん支持に回ったことです。恐らく沖縄経済界の中にも「あくまでも平和を追求したい。もうお金ではつられない」という空気が流れているんでしょうね。

―十数年前に沖縄を取材で訪れましたが、当時の地元の人の声は「基地依存経済」だというどちらかと言えば自虐的なものが多かったと記憶しています。

西表 今はもう沖縄の基地経済依存率は一〇%を切っているんじゃないでしょうか。確かにかつては七割が基地に依存していた経済構造でしたが、基地返還後の跡地を利用した方が経済効果は高いのです。那覇市の南東部にある小禄(おろく)の金城(かなぐすく)地区は米軍基地施設の跡地利用で大型ショッピングセンターや住宅地が開発されてここ二十年間でめまぐるしく発展してきています。県外からの移住者の転居地として人気があって人口も増え続けています。こうした観光、貿易に加えて商業も盛んになってきて沖縄経済の自立を助けています。これが広大な用地を抱える普天間基地が返還されれば宜野湾市は大きく発展すると思いますよ。

―沖縄の国防的な重要性は最近、尖閣問題など中国の脅威に対して必要不可欠だという認識もあります。中国の台湾実効支配の脅威や沖縄にとって他人事ではないと思います。沖縄の人たちにとって外国の軍隊が危険で矛盾した存在であるならば、日本の自衛隊がその代わりに配備されるというのは、沖縄の人たちにとってはどうですか?

西表 沖縄が日本に復帰した直後に自衛隊が配備された時には、当然のことながら反対運動が起きました。宣撫工作の一貫で沖縄出身の自衛隊幹部を送り込んでこの方はその後県議会議員になるんですが、これまで地ならしをやってきていますね。沖縄の女性が自衛隊隊員と結婚する率が当時上がりました。それでもやはり自衛隊に対する見方は厳しく、自衛隊員の子どもが差別を受けるなど自衛隊配備も目に見えない問題を抱えています。

―中国が台湾を実質的に支配した後は尖閣を取り、次は沖縄を想定していますね。

西表 もし沖縄が中国に支配されるようなことになれば、チベットや新疆ウィグルのような異民族支配体制になります。沖縄は七二年の復帰まではアメリカによる異民族支配下にありました。当時はようやく日本国民に復帰して主権を取り戻したと思ったものです。ところが現実は日本に駐留している米軍の七五%が沖縄に集中しています。しかも海兵隊という米軍で最も強力な部隊です。本土の人はもう覚えていないかもしれませんが、当時海兵隊は山梨と岐阜にありました。ところが米兵が婦女暴行事件を起こして反対運動が起きた途端、その部隊全てが沖縄に押し付けられました。

 沖縄で反対運動が起きてもどこにも持っていかないのはどういうことかと怒りを覚えます。そうした歴史を見ても日本国民の無責任さを感じます。安保という日本の国防体制は果たして分相応なものなのか。沖縄が地政学的に太平洋のキーストーンと言われていますが、これも後付けです。むしろ、昔は中国とも交流していて平和の島だった歴史があります。琉球王国時代は中国の冊封国家でしたし、台湾とは古くから友好関係にありました。今でも台湾との交流は盛んです。確かに明治維新直後の廃藩置県の琉球処分で中国に属そうという声が上がったのも事実ですし、今でもその流れで沖縄独立論を唱える人が一部いるのも事実です。しかし、沖縄は、民族的にも学術的にも同じ日本民族ですからね。言語的も文化的にも日本民族のそれです。沖縄方言は古代日本語の姿を残していますからね。古事記時代の神話の言葉が残っています。辺境に古俗が残るという学説もあります。

―それにしても膨張する中国に対する防衛は必要不可欠ですが、その役割を沖縄だけに押し付けるのではなく、本土、特に九州も国境に接しているわけですから、応分の負担もあってしかるべきかもしれません。

西表 それに関しては「本土の民間空港も利用すべきだ」と訴えています。例えば利用率が低い佐賀空港などですね。佐賀の古川知事も検討して事があったし、大阪の橋下さんも言明したことがあります。しかし、政府は米軍基地の分割論をどうしても認めませんね。九州は福岡に代表されるように外国に対する窓口の機能を果たしてきたし、防衛の最前線基地だった歴史があります。地政学的にも九州に防衛の拠点があっても不思議ではありません。現実に今の福岡空港は軍民共用空港なんですが、知らない人が多いですね。本土でも目に見えないところで主権が侵されているのを意外に知らない。本土の皆さんも程度の差こそあっても米軍の制限を受けているんです。

 

 

「屈辱の日」の真情

 

 

―憲法九条についてですが、九条を改正しないと日米安保でアメリカに依存していてはいつまで経っても自国を自分の手で守ることができない。真の独立国ではないために、アメリカの要望による構造改革を呑まされている現実があります。

西表 私は基本的には九条は守るべきだと思っています。確かに独立国家の体をなしていないのも事実です。私は沖縄戦は昭和二十年で終わってはいない、今現在でも続いていると。事実、アメリカ軍が居座っています。まだ、沖縄県民はアメリカ軍と戦っていると思っていますよ。沖縄はまだ占領されていて植民地ですよ。度重なる米軍の不祥事で日米地位協定の改定を要望しているのに政府はまったくと言っていいほどその声に応じていません。自分の国を自分で守るために九条を改正する前に、この不平等な状況を改善することが先決ではないでしょうか。七二年の復帰の時の沖縄県民の喜びの源泉は、国民主権を得ることで国が生命、財産を守ってくれるというものでした。それが復帰してみると、沖縄以外の四十六都道府県の要望は聞いても、沖縄の主権は未だに侵されたままです。昨年、サンフランシスコ講和条約が発効した四月二十八日を「主権回復の日」と制定しましたが、沖縄にとっては「屈辱の日」以外何物でもありません。ブルドーザーと機関銃で強制的に接収されましたからね。普天間と嘉手納が象徴的ですよ。もっとも利用価値が無い住宅地は返還しています。しかし、実際は、スティルス戦闘機の配備、オスプレイもどんどん投入されていて軍事力は強化されているんです。夜間飛行の約束も破られているのが実態です。

―本土の人間にはそういう実感が全くないのかもしれません。基地反対運動に関しては左翼勢力が裏で操っているかとか、さらには中国も、という観測も流れています。

西表 確かに運動の中心は共産党から旧社会党までが手を携えている沖縄革新共闘という団体です。ここに沖縄県民も参加して大きなうねりを起こしています。私はどちらかと言うと保守的なんですが、そういう人間も参加しています。この運動のように大同小異でまとまって運動してもらいたいですね。野党がバラバラの状態では政府に対しては影響力がありません。声をあげつづけている沖縄を見習って欲しい。

―それにしても中国脅威論は根深いですね。日本にかなりの中国人がやってきていますが、不気味です。

西表 確かにそうですね。特に福岡は大学によっては異常な数の中国人留学生が在籍している学校もあって大きな問題です。沖縄は本土と違って台湾からの観光客がほとんどで、華僑も台湾系です。台湾はものすごく親日的でその台湾との交流の舞台は沖縄ですが、残念ながら国として認められていないので政府間の外交ルートはありません。そういう意味では民間外交を沖縄が担っているし、これからもそうあるべきです。例えば、琉球海運が台湾との航路を作ったりして経済交流も本格的に始まりましたからこれからますます台湾との交流は盛んになっていくでしょう。台湾から尖閣周辺へ漁船が乗り込んで過激な行動しているとされていますが、あれは香港からのもので台湾は関与していません。それだけ非常に親日的ですから、尖閣を守るためにも台湾との交流は重要になってきます。沖縄こそが日台の架け橋になるべきです。

―それからどうしても避けられないのは、沖縄戦の総括です。

西表 沖縄は日本の終戦交渉の捨て石になりました。その過酷な沖縄戦が今も引きずっています。主権を取り戻した時こそが沖縄の終戦だと思います。

―当時の国民は沖縄を捨て石とは思っていなかったと思います。戦艦大和は片道切符で沖縄に向かい撃沈されました。日本国民は、沖縄で戦った兵士と沖縄の人々のお蔭という思いを忘れてはいけませんね。

西表 振り返れば沖縄が流した血で国体を護持できたのでしょうし、今の日本の平和の礎になったことは間違いありません。しかし、それでも一般国民が

の多くの血が流れたのも事実で、いったん戦争が起きれば国民にも多大な犠牲が出ます。二度と戦争を起こさない。その悲惨な体験を持つ沖縄の人々の平和への強い希求に繋がっています。人口の四分の一にあたる二十四万人が亡くなったという歴史を風化させてはならないし、日本国民全体の記憶としてとどめてもらいたいですね。反戦平和を希求する心を、行動に移していきたいですね。

―沖縄の問題には色んな横槍が入ってなかなか理解しにくい面がありますが、我々日本人がやるべきことは、「沖縄に心を寄せる」こと。このことから始めるしかありません。

 

 

 

西表氏プロフィール

1950年 沖縄県石垣島出身。沖縄国際大学文学部国文学科卒業、琉球大学法文学部国文学科研究生修了、法政大学大学院日本文学専攻修士課程修了(文学修士) 沖縄国際大学、沖縄大学短期大学部講師を経て現職。

沖縄学会研究所所員、沖縄国際大学南島文化研究所特別研究員を兼任。美ら沖縄大使など役職多数。日本古代文学(文化)、特に古代沖縄文学・沖縄文化を民俗文化的視点からのアプローチで研究。琉球列島各地域に伝承され、祭祀行事などで歌われる歌謡の採集。古文献に記載されている歌謡の分析・体系化及び日本古代文化・アジア民俗文化との比較研究が専門領域。

2014年7月号 石村

そこが聞きたい!インタビュー

 

 

子どもたちに「人間力形成」の教育を

志を立てる子どもを育む小中一貫校構想 

 

石村僐悟氏 福岡経済同友会 教育問題委員会 委員長(石村萬盛堂社長)

 

教育問題と一言で済まされる問題ではもはやない。日本の将来にわたる重要な問題で小手先の策では問題は解消されない。子どもたちに志を立てる教育、人間力形成こそが必要だと力説、自身が旗を振って理想の学校づくりに動き出した。


 

夢ではなく志を

 

―同友会で平成二十三年三月に「豊かな人間力形成のための義務教育に関する提言」を出して、具体的に新たな教科と小中一貫教育の導入を提言しましたね。

石村 元々福岡市の教育委員会を務めていて同友会に委員会が出来たので「石村にやらせよう」ということになって、教育問題をやるために同友会に入ったようなものです。もう十年になります。

 同友会内に委員会ができた背景には、今の教育に対する漠とした不安と不満が経済人の中にありましたが、その現実や原因を的確に捉えたものはありませんでした。そうした中で委員会発足当初から少なくとも学校教育の中に職業人の知恵や生き方を語る機会を作る「出前授業」は始めていました。

―提言の中で構想している小中一貫教育は福岡市でもいくつか出てきていますね。

石村 私たちが提言している小中一貫校のポイントは、人間力の形成を第一に掲げている点です。大人が今の子どもたちに志を語ることがないため、子どもたちも志を意識することができない。博多中学校で始まった「立志式」は現在福岡市の全中学校で取り組まれています。

―みんなの前で自分の志を表明すると。それはいい取り組みですね。

石村 ところが惜しいことに、子どもたちが表明するのはあくまでも夢なんですね。プロのサッカー選手になりたいとか、プロ野球選手になりたいとか夢を発表していたんです。志とは社会との関りの中でいかに自分の生き方を考えるか、社会の役に立つかという心意気です。それを語ることが大事だと思います。いい取り組みだと思いますが、もう一歩踏み込んで世の中のお役に立つという生き方を若い頃から意識させる、それが志を立てることにつながります。

―プロスポーツ選手になるのはあくまでも手段で、目的は自分のプレーで人々に勇気や感動を与えるのが目的だと。

石村 そういう風に子どもたちが言えるようになれば、人間力の形成がすすむのではないでしょうか。ところで、提言をまとめる時に意外なアンケート調査が見つかりました。高校生の四割近い生徒が学校教育に期待する項目に「人間の生き方など人格形成についての指導」が進学指導や教科指導を抑えて断トツのトップでした。子どもたちは生き方を求めているのに、大人たちがそれに答え切っていないのが現状です。ひいてはそうしたことを教える風土が日本から失われている証左ではないかと危惧しています。昔で言えば「末は博士か大臣か」という志を立てる環境にないんですね。

 

 

男女平等教育の弊害

 

―意外と言うかちょっとした感動すら覚えますね。土壌はできているわけですから、あとは大人が種を蒔けばいい…

石村 大人がしっかり伝えれば問題は全くないのですが、その大人が伝えるものを持っていない。それが根源的な問題だと思います。それを妨げる環境が背景にあるように思われてなりません。例えば、戦後一貫して行われている男女平等教育。現在、日本の若者の海外留学が激減しているそうで、特に男子学生が少ないのには、今の若い男性に覇気がなさ過ぎると不安を覚えますね。草食系男子という言葉が流行っていることも笑えない現象です。男女平等教育の弊害は色んなところに出てきています。実は「男らしさ」「女らしさ」を教育の場で忌避しているのは教育の現場の勝手な判断なのです。文科省の教育要領にはそんなことは一行も書いていないのに、現場の先生たちが先回りして男女平等教育を進めているのが現状です。ジェンダーフリーをさらに進めて「男女の違いを意識させてはいけない」というところまで進んできています。

 ある中学校では男女同じく徒競走させたり運動会の騎馬戦では男女平等に組ませるとか、男女の区別がなくなるような教育が進められています。一番驚いたのが、身体検査を男女同じ部屋で行う工夫を先生が報告していたことです。その解決法は「薄い体操着を着せた」そうです。これを本気で先生たちがやっているんですから呆れてしまいます。

―性差を認めた教育であるべきなのに、これでは人類は滅びますね。

石村 そういったことを考える能力をまだ身に付けていない子どもにジェンダーフリーという先生の観念を押し付けているのが現状で、非常に危険な状態です。性の差、違いを教える事が悪だという偏った観念を子どもたちに植え付けようとしているんですね。今や、先生が「もっと男らしくしろ」と指導する事もできない。男は弱い者を守るという本能的な使命があるはずなんです。性の違いは認めた方が自然ですよ。男女平等論者と議論する機会がありますが、彼らは男女の違いに言及すると猛然と反発してきます。そうして言うに事欠いて「女性とは子ども産むという可能性がある性で他は男性と何も差がない」とか屁理屈を並べ立てますね。

―そうした教育が少子化の原因ではないでしょうか。

石村 私は少子化の原因は男が頼りなくなったからということもあると思っています。女性から見て魅力的な男が少なくなって結婚しない女性が増えたからではないでしょうか。

―鶏か卵かの話になりそうですが、女性の社会進出も要因ではないかと。こう言うと、フェミニストから抗議を受けそうですが、女性の行き過ぎた社会進出が男性の立場を失わせてその結果、男らしい男性が少なくなってきてのではないかと思うのですが。

石村 それもあるかもしれませんが、女性がやれるところは大いにやるべきでその戦力化は必要です。現に当社ではそれまで男の職場と思われていたパン製造部門はリーダーから全て女性がやっています。そういう女性の社会進出を促している私が男女の性差を認識した教育が必要だと言っているんですから「説得力あるでしょ」と反論しています(笑)。いずれにせよ、男が男らしく真っ当に育ちにくい風潮になっているのは事実です。

 その背景には世の中で父性というものが消滅しかけていることがあるんじゃないでしょうか。父性と母性の絶妙なバランスが崩れてきてしまっている感じがしますね。それはたまに母親が父性を担う場面もあると思いますが、突き放したり規則を守らせたりする父性が今無くなりつつありますね。体罰など鍛えるという父性のもっとも担うべき教育が学校からなくなってしまい、やさしさ、甘やかす一辺倒の教育ではまともな人間は育ちにくいですよ。

 

 

教育現場の問題点


 

―そうした人間の道を教えるのが道徳ですが、これを教科化しようという動きが出ていますね。

石村 愛国心教育でも「国を愛しなさい」といくら言っても身に付かないのと同じです。それよりも愛すべき日本の歴史、伝統、文化を子どもたちに対してしっかり語る事が重要です。そういう先生が少なすぎます。東日本大震災直後の日本人の整然とした姿勢や他人をいたわる姿を絆という言葉で喧伝していましたが、その源流は千年以上も前の聖徳太子の憲法十七条の「和をもって貴しとなす」にあるという歴史を語るべきなのです。

―同友会の出前授業ですが、子どもたちに何を伝えようとしているのですか。

石村 約五十人の講師に登録してもらっていますが、講師の方々には「スキル的なものよりも、職業観、人生観を子どもたちに語って欲しい」と要望しています。基本的には高校生対象だったのですが、最近は中学校からも要請が来ていて中学生にも講義しています。講師の皆さんの手弁当です。形式は全校生徒の前から十人くらいの少人数など色んなパターンがあります。講師にとっての喜びは何と言っても、生徒からの感想文ですね。子どもたちが真剣なまなざしで自分の話に耳を傾けてくれていたのかが分かりますからね。講師にとっては若い人たちからエネルギーをもらい、初心に返れるいい機会になっているのではないでしょうか。

 こうした活動をやりながら教育に対する提言をまとめたのが三年前の提言書です。教育の現場にもっと人間力を形成する教育が必要だという結論を出し、その具体的方策として小中一貫教育の推進を提案しました。最近、文科省が小中一貫教育を推進する事を発表しましたが、中学校の先生が小学生を教えるなど先生の交流ができるなど結構なんですが、私たちが提言しているのは小中の九年間で子どもたちが志を培う教育なのです。リーダーシップの涵養や日本の歴史を学ぶなど詰め込みではなく生き方として教育を目指すものです。品川区が先駆的な取り組みで「市民科」という教科を創設しています。これは道徳、歴史を中心とした色んな要素を取り込んだ教科を作っていますね。先生たちが作った教科書を使って一年生から九年生まで一貫して教育しているんですね。

―提言の中に学校長の権限の強化がありますね。

石村 教育界の講演内容でよく学校経営というテーマの依頼が来ます。「今の制度では学校は経営できません。なぜなら、校長に人事権と予算編成権がないからです」とお話しています。これは経営に喩えれば自明です。要するに学校を経営するには、少なくとも校長に人事権と自分の学校をこうしたいという思いが実現するような予算化できるようなシステムがないと校長に学校経営はできません。

―先日も校長が薬物事件で逮捕されるなど教育以前の教員の質の問題も大きいような感じがします。

石村 それは確かにありますね。変な教師が多過ぎます。これは試用期間を作ってじっくり人間性を見てから本採用にするなどの制度改革が必要です。私立学校の多くは三年間の試用期間を設けているところがほとんどです。


 

世の為人の為

 

―小中一貫校の具体的な構想は?

石村 私立のモデル校を作ろうと考えています。これは文科省の構想とは中味、目的が違います。学校で人間力形成ができるモデルを作るのが目的なんです。今、発起人が五十名ほど集まっていますが、これを百名まで増やそうと考えています。

―私立と言うと、進学実績が一つの“業績”に捉えられがちですが。

石村 あくまでも志の高い人材を養成するのが教育理念です。

―小中の私立学校と言うとどうしても英才教育というイメージが定着していますね

石村 人間力育成を最優先させて、当然志が涵養されればその志を達成するために勉学に励む事になりその延長線上に学業成績が向上していくでしょうね。あくまでも成績はその結果です。ですから、入学試験は親御さんの面接重視になりますね。

―拝金主義という世の風潮の中で新しい形の学校の役割は大きいようですね。

石村 世の為人の為に生きるという志を持った子どもたちを育てるのが目的ですから、拝金主義に塗れない人間を世に送り出すことが眼目になってきますね。それこそが豊かな人間性の追求になります。そういったことは無理して教えるものではなく、偉人伝を読ませたり鍛えることで身に付けさせることが必要でしょうね。

 私がよく例に出すのが、長野冬季オリンピックのスピードスケートで金メダルを取った清水宏保選手の話です。清水選手はオリンピック本番前に父親を亡くして母親の大変な苦労の中で練習を積んでいたんですね。彼はメダルを取った後のインタビューで「お父さんが元気でいらっしゃったらもっと楽に金メダルを取れていたのでは」という質問に、「いいえ、父が生きていたら(甘い環境の中で)金メダルは取れていなかったでしょう。お袋の言うに言われぬ苦労に報いたい一心があったからこそ取れたんです」と。このような素晴らしい現代の若者がいることをもっと知るべきですよ。素晴らしい言葉です。こうした生き方もあるんだということを教わるべきですよ。大人になって色んな困難や苦労にぶつかっても乗り越えられる逞しさ、そういうものも豊かな人間教育の中に含まれます。

―世の風潮に権利意識を異常に強めるものがあり、子どもたちにも悪影響を及ぼしていますね。

石村 人権は大事な事ですが、今学校で教えている事はいわゆる人権教育は、エゴイズムを教えていることに等しい。歴史教育問題以上に公民教育がひどいと思っています。例えば、公民の教科書で権利の部分が九七%で義務を教えている部分はたったの三%です。その三%で教えている義務は、「公共の福祉に寄与する時だけ存在する」としか書かれていないんです。この是正も新しい学校でやらなければならないと思います。

―ここ数年の傾向ですが、世の中が少し保守化しているような感じがしますが、教育の正常化に追い風が吹いているのでは?

石村 確かにその傾向になっています。気になるのは、言葉の上滑りです。ユリ戻しなのかもしれませんが、道徳の教科化、愛国心教育など言葉だけでは心に響かないし定着しないのではないでしょうか。

―学校創設はご自身のライフワークの集大成とも言えますね。

石村 そうですね。何とか実現に漕ぎ着けたいものです。

 

 

石村氏プロフィール

昭和23年生まれ 昭和46年 東京大学経済学部 卒業

昭和46年11月 (株)石村萬盛堂 入社

昭和54年12月 (株)石村萬盛堂 代表取締役社長 就任

       (株)イシムラ 代表取締役社長 就任

平成18年7月 (株)マッシィロマン 代表取締役社長 就任

【所属】

福岡信用金庫理事(非常勤)、九州電力監査役(非常勤)、博多優良法人会代表理事、九州ニュービジネス協議会理事、福岡市菓子組合理事、九州銘菓協会理事、福岡市観光土産品協会理事他

【現状】

明治38年創業。「伝統」を守りながら、常に新しいことへチャレンジを続け、現在では「石村萬盛堂」をはじめ、洋菓子の「ボンサンク」、ファーストフード型回転焼きの「甘市場」、高級和菓子の「萬年家(はねや)」、さらには郊外大型店舗「いしむら」を積極的に展開する。また、バレンタインデーのお返し日として定着した3月14日のホワイトデー(マシュマロデー)の考案者としても知られる。

2014年6月号 向野

知られざる「つよくやさしい日本人」向野堅一

 曾孫が紐解くヒーローの実像とは

 


戦前、日本および中華民国で高く評価された向野堅一。日清戦争のとき、特別任務を命ぜられ、任務に従った者のうち、ただ一人だけ九死に一生を得て、使命を果たした。その後、これからは「商業の時代である」という信念をもって、北京・大連・奉天を舞台に、日中合資の正隆銀行、満州市場株式会社などを設立し、満州経済界を指導する傑物だった。知られざる日本人のヒーローの姿を今、紐解く。

 

向野堅一記念館(直方市殿町元讃井病院)所有者 特定非営利活動法人向野堅一顕彰会理事 向野康江氏に聞く

※康江さんは向野堅一の長男・晋(すすむ)の次男・三生(みつお)の長女。堅一は曽祖父に当たる。

 


「これからの商業は大陸だ」という志

 


―向野堅一(以下 堅一)が当時の清とかかわるきっかけから聞かせてください。

向野 中学修猷館を卒業目前になって病気に罹ります。家で療養しているとき、荒尾精(元陸軍軍人)という人物が学校を新しく作ると聞き、荒尾の講演会に出かけました。その講演で「これからの商業は大陸に向かうべきだ。それが国を強くする」という主張に感銘してその場で上海に設立される予定の日清貿易研究所(後の東亜同文書院大学)の入学願書にサインしたそうです。慎重な性格と言われた堅一がその場でサインしたのですから、よほど感動したのでしょうね。後に軍事探偵を務めて九死に一生を得るのですが、堅一宛ての兄たちの書簡を読むとあくまでも清で商業を学ぶために行っているのが分かります。恐らく当初は軍事探偵をするとは露ほども思っていなかったのではないでしょうか。

 研究所の志望者は六百名ほどでその内合格したのは約百五十名で卒業できたのは六十八名ですから狭き門の上に入学してからもかなり厳しい教育内容だったようです。ビジネスと中国語を朝から晩まで徹底的に教え込まれたようです。この他柔術も教科にありました。堅一はその中でも成績上位で卒業します。同期生には玄洋社社員で国会議員を務めた香月恕経の次男・梅外らがいます。

―その堅一たち研究所卒業生がなぜ軍事密偵になるのですか

向野 研究所を卒業した堅一たちは「日清商品陳列所」に就職し、実地の商業を研究するために中国各地を視察します。日清戦争開戦前の一八九四年(明治二十七年)、広島大本営部の根津一より軍事偵察の特別任務のため、中国語の堪能な日清貿易研究所卒業生らに募集がかかり、堅一は他の卒業生(楠内友次郎・福原林平・藤崎秀・大熊鵬・猪田正吉)や藤島武彦(漢口楽善堂)らと広島に集結。向野、藤崎、大熊、猪田四人は第二軍(司令官大山巌)の通訳官になります。堅一たちが所属する第二軍は広島の宇品を出航、遼東半島花園口に上陸します。

堅一ら四人と別途同軍に属した山崎羔三郎・鐘崎三郎(共に貿易研究所員)の六人は、軍に先行して敵情偵察をするため、それぞれが直ちに偵察活動を開始しました。堅一ら六人は南山の戦いで金州城がなかなか陥落せずに苦戦を強いられていた日本軍のために一帯の状況を密偵する事になります。いざ六人が現地に潜行しそれぞれの地域を分担して密偵行動に入ると、堅一は「もし、他の仲間が帰ってこられなかったら情報は入らない。そこを自分が回って調査しようか」と悩んだそうです。向野晋編『明治二十七八年戦役向野堅一従軍日記』を見ると、石ころを放り投げて奇数が出たら仲間の分担地域を調べよう、裏が出たら自分の分担地域の調査だけにしようと。表が出たので決断して他の仲間の地域も調査する事にしたそうです。

堅一が危惧していたように、清国側の警戒は厳しく清国軍が発行した"赤符"(身分証明書)を持たなかったため、全員が清国兵に次々に捕えられます。

堅一は探索中、現地の人らに中国語訛りから怪しまれ、捉えられました。しかし、夜間護送中に奇計によって脱走、人家を避け、畑を抜けて逃走し、峻険な岩山に辿り着き、身を隠します。一方、藤崎、山崎、鐘崎は捕縛後拷問を受け斬首、大熊、猪田も消息不明となってしまいます。堅一は、山中を彷徨し、野宿や乞食をしながらも唯一人生き延びて偵察行動を続け、金州城の偵察に成功します。命からがら奇跡的に帰還した堅一から情報を受け取った大寺安純参謀長が作戦を変更しました。堅一の情報は的確で日本軍は敵の急所を攻撃します。堅一の情報は金州城攻略に大いに貢献することになりました。

―親友の遺体を捜しに再び前線に戻りますね。

向野 日本軍が優勢に戦いを進めている間、堅一は仲間の安否が気がかりでなりません。清兵が撤退した兵舎に書類が残っていて、堅一が偽名に使っていた名前(李宝林、花園河を出たときは吴文郷)も記されていたので、本人も大いに驚いたと日記に記されています。仲間の消息を聞いて回ると、処刑された場所や遺体が埋められた所が徐々に分かってきました。実際そこを掘ると、首と胴体が別々になったものがありました。頭部の辮髪を結った組紐や添髪、衣服などで山崎、鐘崎、藤崎の三氏だと判ったとのことです。特に堅一と藤崎は「親密なる朋友」だったそうで、出発前に堅一が藤崎の辮髪を結ってやり、一枚の紺色の布を割いてお互いに足に巻いていましたが、その布片が遺骸の脚部にまだ巻きつけられていたのを見て、本人たちの遺体だと判明しました。それを見た堅一は、耐えきれずその場で号泣したといいます。

三人の遺体は発見しましたが、堅一の辮髪を結ってくれた大熊鵬と猪田正吉の遺体はこの時点では見つかりませんでした。

日記の三月七日の記述では、牛車の調達に苦労した堅一が疲れ果てて一睡の夢を見ます。「北風雪を吹いて顔面を打ち、眼を開くことができない。しばらくして牛家屯に到着した。この夜、鐘崎氏が帰って来た。私は、君は金州で処刑されたのではなかったのかと驚いた。目が覚めたら一睡の夢だった」と記されています。三月三十一日、盖平に滞在していたときにも夢を見ていて、次のように書かれています。現代語に訳したので読んでみますね。

 

午後六時夕食後、香月梅外氏と測量部附通訳官・松崎翠を訪ねた。

この夜、突然、猪田、大熊の両氏に出逢った。

大熊氏は机に寄り掛っていて、猪田氏は机の前に座っていた。

私はふとその部屋に入り、二人が現然として座っているのを見て驚いた。

私は驚きのあまり横に倒れて、悦びの声を発して涕泣した。

そして、どうやって帰って来たかを聞いた。

二人は「我等は宗慶のもとにいて残酷な責めもあまり受けなかったが、いつか我が軍に帰ろう思っていた。それを果すことはできなかった。だからここで密かに宗慶のもとを脱出し、営口から汽船で天津を経由して上海に至り、都合のよい船便を見つけて日本に帰って来ることができた。」

と答えて言った。

私は、「どうして我が軍が盖州を攻略したときに帰らなかったのか。」

と二人に尋ねた。二人は「我が軍が盖州を陥れたことは隠して、私たちには知らせなかった。」

と言った。それを聞いてまた驚きながら私は二人に、

「君たちのために、師団司令部の亀岡管理部長は非常に心配されていた。早く電報で通知してください。また、根津氏は毎日、君たちのことばかり君等ノ事(而巳)心配されているから、根津氏にも電報を打ってください。」

と電報の文章まで伝えた。

「電報局は中門を過ぎて少し行けば通信局があるから。」

と。このとき私たちは盖平にいたようだった。

さらに私は二人に

「私は一人で帰って来たけれども、同じように偵察に出ていた者は他にはいないし、談話の相手も無かった。君たち二人が帰って来きたので、当時の困難さを話せば、さぞや愉快だろうと思っていたよ。」と言いながら大いに喜んでいた。そのとき突然、目が醒めてはかない夢とわかって茫然としていた。

夢から覚めて昔のことを思い出すと、そぞろにしんみりして旅の宿で涙を流した。

 

日清戦争直後、堅一が新聞記者の取材を受けて仲間三人の壮絶な死を伝えると、「殉節三烈士」と称えられヒーローになります。遺骨は郷里に送られましたが、金州に北門郊外の一山頂に碑を建てて慰霊し、三人の姓にいずれも崎の字が付いているためこの山は「三崎山」と命名されました。三碑は三国干渉で遼東半島を返還することになったため、東京高輪の泉岳寺に移され、現在に至っています。

堅一の日記に「何事も無し。退屈極まりなし」と書いてある部分がありますが、戦局が日本の勝利で終わるのが見えてきた頃、堅一たちの任務は落着します。日清貿易研究所生の志は、中国で商業を興すことでしたから、役目が終わったら早く密偵を辞めさせてくれと、同級生十一名の連署で乃木希典中将に嘆願書を出しました。乃木将軍は、「それぞれ出せ」と言います。内容を読みますと次の通りです。

 

明治二十三年 研究所創立の際より 永遠に日清貿易に従事する目的で渡清しました。その後、清国内部視察のため各地を旅行中、今回の戦争を生じ 上海より直ちに、大本営ヘ招集せられ、一度も帰国しないで従軍しました。もちろん国のため微力を尽くす精神でしたから、そのころ意見を申し上げる暇が無くて、今日まで経過してしまいました。幸いに一命をとりとめ、両国の平和もすでに成立しました。今後は商業の戦争の時代ですので、従来から抱いていた長江以南に向けての貿易を試みたいという目的を遂げたいのです。すでに昨年より商社を開業する運びもありますので、一応、帰国して、諸事整頓の上、必要とあらば命令に応じるつもりです。また、台湾はかねてより大いに望みをたくしている地なので、ひとまず帰国した上で、かの地に派遣されることは、誠に懇望するところです。どうぞこの衷情を推察してくださり、右のように取り計らってくださることをお願い致します。 

総督部通訳官                            向野堅一

明治二十八年六月一日

 

ちなみに、このときの功績により明治天皇に拝謁し、勲章や天皇の寝具を賜り、堅一には多額な年金が支給されたそうです。陳情書の文面によると、台湾での商業活動を期待していたようですが、そうはいかなくて、堅一は、台湾総督府付通訳官として、橋本定幢(教安寺住職)と、現地民に布教活動に従事しました。そのときの様子を記した定幢氏の日記が『台湾浄土』です。

 


義和団事件で再び窮地に


 

―約一年間の台湾での布教活動を終えてようやく本来の志である商業に戻る事になりますね。

向野 香月梅外、同じく卒業生の河北純三郎とともに筑紫洋行(筑紫弁館)を北京に創立します。筑紫洋行は日本で初めての大使館御用達の弁館です。弁館とは在留邦人向けに色んな商品を販売したり、日本の製品を現地の人たちに売るいわゆる日本物産館のようなもので、今で言えばデパートのような商業施設です。ところが一九〇〇年(明治三十三年)、その筑紫洋行が大使館の向かい側にあったため焼き討ちにあい、社員たちは、暴徒鎮圧のため立てこもって防戦することになりました。そのとき、八女出身の社員・中村秀次郎が、民間人の義勇隊員として初の戦死者になってしまうのです。当時、堅一は河北と神戸に買出しに帰国していました。洋行がどうなっているか気が気でない二人は、有馬組という当時大陸を横断していた土木業者の社員となって清に戻ります。

ようやく北京にたどり着いた二人が目にしたものは筑紫洋行の無残な焼け跡だけでした。洋行焼き討ちで共同経営していた堅一と河北の二人は莫大な負債を負うことになります。香月は白岩龍平が経営する新利洋行に転職していましたから。その負債を返済するため、今度は有馬組に主任として入社して遼東半島の運輸道路を開拓していきます。後の日露戦争時にその道路が補給路として大きく貢献したそうです。堅一自身も日露戦争では兵站部を担当、軍需品の確保や輸送に当たりました。この時期、「有益公司」というのを設立します。営業内容には精米も入っていたようです。

 

 

 

満州経済開発の嚆矢

 

 

―これが満州での事業の足がかりになりますね。

向野 有馬組で負債を全て返済した堅一が奉天に赴くのは、一九〇五年(明治三十九年)です。「茂林館」後の「茂林洋行」を設立し、まず、石炭販売および陸軍用品払い下げ販売業に従事します。次に、瀋陽建物株式会社を設立して奉天に満州鉄道の社宅の建設を手がけます。当時の満州の大部分は無人の荒野でした。その荒野を堅一は切り拓いていったのです。

菊池秋四郞と中島一郞という人が書いた『奉天二十年史』(奉天二十年史刋行會、一九二六年)には、「斯くして明治三十九年奉天に來住し、茂林洋行を開業した。當時の奉天は荒涼たる原野で邦人にして家屋を建築したのは、君を以て先驅者となす。君は目下家業を經營する傍ら帝國生命保險代理店をも兼營して居るが、奉天創設者として特記すべき一人である。(八一~八二頁)」と書かれています。帝国生命保険代理店、紡績・ガラス・石鹸製造をしていた奉天化学工業の開設もしましたし、満州市場株式会社を設けて中央市場をつくりました。奉天製氷株式会社の監査にも就任します。晩年には次男・有二(ゆうじ)と石油販売なども考え、ウランバートルへの道路計画を進めようともしました。その路線に沿ってガソリンスタンドをつくろうとしたのです。「商業を大いに盛んにする」という初志を実現していきます。

でも、私が一個人として感銘するのは、初の日支合弁銀行である正隆銀行を設立したことです。この銀行は深水十八が頭取時代にはうまく機能しませんでした。堅一と十八の甥・深水静が実務を採りますが、てんてこ舞いしたようです。「第一着の日支合弁事業である。今これを破産させては日本政府の威信にも関わる」と心配した高橋是清が、安田善次郎に頼みます。

善次郎は、養嗣子安田善三郎の反対を押し切ってその引き受けに応じました。以降、安田と堅一の経営によって、正隆銀行は大陸最大の銀行となっていきます。

―堅一の軌跡を辿ると先駆け的な存在だったというのが分かりますね。

向野 そうですね。堅一に関する当時の記事には堅一の事業展開について「君をもって先駆となす」「嚆矢となす」という表現がかなり出てきます。『支那在留邦人興信録』(東方拓殖協会、一九二六年)に「奉天 茂林舘 向野堅一君」というのがあって、筑紫洋行に関して「日本人にして北京に商店を開設したるは君を以て嚆矢となす」と書かれています。

手堅く瀋陽建物株式会社を経営する一方で、大胆に次々会社を興していく堅一ですが、学生時代から実地調査で鍛えられているので、事業を開始、もしくは中止することには慣れていたと思います。実際に、奉天からウランバートルまでの広大な土地を買占め、道路を引き、その路線にシェルとの共同のガソリンスタンドを作っていこうとしたときには「利無し」と判断して中止を即断しています。

―玄洋社とも交流があったようですね。

向野 第一次世界大戦では世界中が好景気になりましたが、しかし、昭和に入ると今度は世界恐慌が起こります。そして世論は国権主義的傾向を強めていきました。排日運動も起こりました。堅一は自分が創立した正隆銀行から借金していましたし、多くの人の保証人になっていました。そんなときに恐慌が起こって株価が下がるとどうなると思いますか。案の定、堅一は破産状態になったとも伝えられています。苦労しながら、福岡の因幡町の屋敷を処分したりして乗り切ったのではないでしょうか。このとき、因幡町の土地売却を斡旋したのが、玄洋社の柴田氏と書簡に書いてありました。玄洋社社員のなかでは、孫文と関係の深い島田経一、宮川五郎三郎(奈良原至の弟)、末長節との書簡が圧倒的に多いですね。その関係なのかもしれませんが、堅一は亡命した孫文を助けたと伝えられていますし、遺品の中に「博愛」という孫文の揮毫が遺されていて、それには「向野先生」と記されています。

 堅一はそうした危機を乗り越える一方で満州経済界では重職につきます。奉天商工会議所副会頭を六年間務め、商工会議所産業部長や奉天聯合町内会長も務めるなど満州財界の指導者になりました。「満州で儲けた金は満州でつかう」という信念をもっていた堅一は、日本で初めてのブリキ工場を造りたいとうことで、八幡製鉄所(現・新日本製鐵)への出資を依頼されましたがそれ断ったとのことです。正隆銀行の創立に資本を出したと考えられます。いかんせん、一民間人としては莫大な投資額でしたから。晩年は次第に押し寄せる軍部の経済への干渉を嫌いながらも、唯一民間人として奉天商工会議所のメンバーに留まり続けました。堅一は大陸の経済の安定化を第一義に考えていて、満鉄の政府補助の増額を訴える決起集会の代表になるなど献身的に活動していました。

―堅一は美術品の大変なコレクターだったようですね。

向野 堅一自身が書画、謡曲、篆刻を好む美術愛好家でした。堅一の死後、奉天で毎月のオークションで売りさばいたものもありますが、そのほとんどは引き揚げてくるときに長男・晋によって中華民国政府へ寄贈されました。その証明書は今も記念館に残っています。美術品で残っているものは、日本の妻の実家に預けていたものです。これを向野コレクションと呼んでいます。向野コレクションの数や内容を見ても、当時かなりの美術品を所有していたのが分かります。堅一が好きだったこともあったのでしょうが、清国が衰退するなかで貴重な美術品が国外に持ち出されるのが忍びなかったこともあったのではないでしょうか。また、軍部の干渉が強くなって事業に対する意欲が低下してコレクターに没頭するようになったとも考えられます。

 


つよさとやさしさと

 

―最後は軍部が満州事変を起こそうとしていることを察知して急遽上京していますね。

向野 中国人相手に商売をしている茂林洋行を窮地に追い込み、株価が暴落すると満州経済が破綻する恐れがあったので、その金融対策として、できるならば満州事変を食い止めたいと上京しました。伯父・中三(晋の長男)は、詳しく堅一のことを話してくれましたが、その話によれば、息子の晋から強く押されて重い腰を上げたようです。しかし、過労がたたったのか脳溢血で倒れ、一九三一年(昭和六年)九月月十七日に永眠します。自分が強く上京を促したので父親の死期を早めたと晋は生涯悔やんでいたとのことです。奇しくも堅一が亡くなった翌日の九月十八日に満州事変が起きます。

―ところで直方市にあるこの記念館は病院の建物だったそうですね。

向野 讃井病院の建物で、大正十一年に出来上がったものです。昨年十二月二十四日に国の登録有形文化財に認定されました。当時、院長だった讃井源次郎氏は玄洋社とも縁が深く、内田良平の揮毫も残っていました。讃井氏が、堅一の次兄・斉(ひとし)と一緒に写っている写真や、讃井氏自身が日露戦争で軍医として従軍したことからも、堅一とも交流があったのは間違いないでしょう。最初にこの建物を見たとき、堅一もこの建物を訪れたであろうと思いました。この建物が売りに出されていることを聞き、記念館として活用したいという思いが湧いてきました。さっそく所有者であった讃井才子さんに会いに行きました。讃井さんはフランスに永住するつもりでしたし、売却が不可能なら取り壊すつもりだったとおっしゃいました。ここは犬養毅首相が訪れた屋敷であり、かつて炭鉱で栄えた直方の繁栄を物語る建物ですから、そのようなもったいないことにならないように購入することを即断しました。入院していた母がここを訪れて、私に「買いなさい」と言いました。購入した二週間後に亡くなりましたので、その言葉が遺言になりましたね。

 課題は常駐の受付が不在で常設ではなく見学が予約制になっていることです。せっかくの歴史的遺産ですから何とかフルに開館できればと思っています。

―「つよくやさしい日本人」向野堅一の生涯を総括すると…

向野 堅一のやさしさは曾孫の私も実感できます。ある中国人研究者は堅一を「恩義に厚い日本人」と評価しています。一度捕縛されたものの命からがら逃げ出して、飢えて死にそうになったときに見知らぬ自分の命を助けてくれた村長・姜士采の孫・姜恒甲を養子にし、姜村長の希望通り、現・早稲田大学に留学させるなど、恩義に厚い人物だったからです。

堅一の死後、一九四〇年(昭和十五年)頃から、堅一自身が「つよくやさしい日本人」というタイトルで歴史的人物として取り上げられるようになりました。大日本雄辯会講談社『講談社の絵本』第三十三巻「西郷隆盛」には、理想的人間像として堅一のことが書かれています。堅一が収集した情報で日本が勝利した事も再評価されたのだと思います。

また、創立した会社では中国人と日本人が一緒に仕事をし、時々、日本人はもとより中国人の知人・友人、家族を集めてパーティーを開いていました。分け隔てなく付き合っていた優しい性格の人物だったのでしょう。堅一が、奉天に建立した大義寺には日本人だけではなく日露戦争で戦死した人々が民族の分け隔てなく祭られていました。

「つよい」堅一とは、敵中、危険な目に遭いながらも奇跡の生還を果たした生命力や現地の情報をメモなしで報告書を書き上げた記憶力、そして仲間の遺体を捜しに行った勇気、義侠心に対する評価ではないでしょうか。

堅一の生涯は、そのほとんどを日中共同商業活動のために尽力し、早くから満州の経済開発を手がけ、中国文化をこよなく愛した生涯でした。堅一の人生を辿ることは、日中の歴史の深く触れられてこなかった真実を学ぶ事ができると思います。

 

向野堅一

明治元年九月四日、福岡県鞍手郡新入村(現・直方市)に生まれる。遠き満州にその名を残し、終始一誠、人を愛して、国を憂いては命をかけた不屈の男である。修猷館から日清貿易研究所へ進学。日清戦争のとき、特別任務を命ぜられ、任務に従った者のうち、ただ一人だけ九死に一生を得て、使命を果たした。これからは「商業の時代である」という信念をもって、北京・大連・奉天を舞台に、日中合資の正隆銀行、満州市場株式会社などを設立し、満州経済界を指導する。

 

 

向野康江

昭和三十四年、福岡市生まれ。筑波大学大学院芸術学研究科(博士課程)修了。「関衛研究―関衛(せき・まもる/一八八九-一三三九)大正期芸術教育思想の展開―」で博士号(芸術学)の学位を取得。現在、茨城大学教育学部勤務。北九州市立大学博士課程後期(社会システム研究科 ・地域社会システム専攻)に在籍して二つ目の博士号取得を目指している。

著書に『現代語訳 淡窓詩話』(葦書房、平成十三年)、『乙女峠』( 弦書房、平成十八年)『子どものための美術教育―学校での図画工作科教育と家庭でのART教育―』( 弦書房、平成二十二年)がある。

 

参考:「直方に生まれたつよくやさしい日本人・向野堅一」『茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学、芸術)』第五十九号(平成二十二年)所収、二十三-三十五頁

2014年5月号 浦辺

そこが聞きたい!インタビュー

伊藤博文暗殺事件の謎に迫る

封印された近代史を紐解け

 

ライター 浦辺登氏

 

 

初代内閣総理大臣伊藤博文を暗殺した安重根をヒーローとして称えその記念碑を建てようという動きが中韓両国の間で起きている。一方、日本ではその黒幕に杉山茂丸がいるという説が一人歩きしている。果たして安重根は単独犯なのかそれとも…謎に迫るインタビュー。

 

真犯人

 

 

―明治四十二年(一九〇九)にハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の安重根によって暗殺されましたが、その黒幕的存在として杉山茂丸が関っているという説が巷間で流布されています。浦辺さんはその説を真っ向から否定していますが。

浦辺 杉山黒幕説を最初に発表したのは、現在某大学の教員を務める方です。この方が今から十数年前に「暗殺・伊藤博文」という著書を出されたのですが、この中で「杉山が画策して玄洋社・黒龍会に関係する者が謀略を働いた」と結論付けています。氏はあくまでも謎だとしながら、「杉山黒幕」説を主張しているのが不思議ではあるのですが、これをよく読んでいくといわゆる作文だということが分かります。つまり、色んな文献から都合の良い部分を引っ張ってきて貼り付けて書かれているんですね。それを非常に巧妙につなぎ合わせられてあるので、一般の読者が読むと納得させられてしまう。私のような玄洋社関係を研究した者からすれば、この著書はまさに週刊誌的な“見出しが躍る“内容でしかありません。しかし、著者の権威によってその中味を疑わずに引用している人が多く、間違った歴史が一人歩きしています。これは日本の近現代史を解明していくためには大きな障害になりかねないと思っています。

―黒幕説の反証は?

浦辺 まず、ピストルで人を撃つということがどういうことなのかから考証しました。一般にテレビや映画の影響かもしれませんが、簡単にできると思われていますが、安重根が旅順の刑務所で書いた供述書を見るとある疑問が生じてきます。その供述書は漢文によって書かれています。当時の朝鮮は階級制度が厳しい社会ですから、安重根は漢文が書ける階級となると、つまり両班(やんぱん)という支配者階級の人間であることが分かります。この階級は下級階層から徹底的に搾取して贅を尽くしていたわけで筆より重たい物を持ったことがない人間がピストルを使えたという謎にぶつかります。そんな人間がなぜピストルを撃てたのか、どこから入手したのか…

普通の人がピストルで人を簡単に殺せるか。このことについてある元警視庁SPの方にそのことを訊いた事があります。その方によれば、即座に否定されました。「映画やテレビの中のやくざですら、人を撃つのが怖くて上に向けて威嚇するだけでしょ」と。ピストルで人を撃つことは普通の人間にはできない、となれば安重根は訓練されたある種のプロと言ってもいいでしょう。どこかでヒットマンとしての訓練を受けたのでしょう。

 次の疑問点は、安重根が使用した拳銃です。使用されたブローニング製の拳銃は七連発で安重根は銃弾を六発入れて、その内五発撃って残りの一発は自決用に残したと自供しています。あの群衆の中で自決用に一発残すという冷静な行動からも安重根はプロだったことが分かりますね。東京の憲政記念館にある安重根が撃った弾頭が保管されていて、それを見ると十字の刻みが入っています。殺傷能力を高める工夫をしていたことも安重根プロ説を証明しています。ところで、ブローニングという拳銃はベルギー製です。ベルギーと言えば、チョコレートとダイアモンドのイメージしかないかもしれませんが、武器製造は現在でも主要産業です。その技術は優秀でナチスドイツですら、製造工場は攻撃せずに自分たちが使うために接収したくらいです。この拳銃には一丁毎にシリアルナンバーが付きます。このシリアルナンバーが付いたものを買ったのはロシアの武器商社で、彼らが外国に売ることはありえません。自国に売るしかないわけですからロシアから安重根にピストルが渡ったとしか考えられません。

―よく考えれば当時の朝鮮でピストルを手に入れて訓練する事など不可能ですね。ロシアが黒幕の可能性は大きいですね。

浦辺 この事件は年表では「明治四十二年十月二十六日午前九時半過ぎにハルビン駅で暗殺された」としか書かれていませんが、この時他にも被弾して負傷した人がいるのはほとんど知られていません。ロシアのココフェツ蔵相との会談のためにハルビンを訪れた伊藤の随行員五人が負傷しました。伊藤以下六名が被弾した弾の数は十三発です。

―えっ?!安重根が撃ったのが五発ですから計算が合わない…

浦辺 安重根が撃ってきたのとは違う方向から銃弾が飛んできたと証言しているのが、首相秘書官の室田義文(よしあや)で自身の口述筆記による自伝によると、「安重根とは違う方向から弾が飛んできた」と証言しています。この人は小指やコートなど五発被弾しています。伊藤の致命傷になった弾が三発ですからこの段階で計算が合わなくなりますね。この他の五発が中村是公満鉄総裁らに当たっています。安重根はロシア兵の股下から上を見上げる形で狙撃しましたが、伊藤の致命傷になった弾は上から撃たれたものです。これは室田も証言していますし、付き添いの日本人医師の検死も上から撃たれたものが致命傷になったという資料も残っています。また、山口県立博物館に伊藤が被弾した時の着衣が残っていて現在の科学捜査で検証しても上から撃たれたという結果が出るだろうと言われています。

 

犯人の意図

 


―そうなると安重根は囮役ですね。ロシアの目的は何だったんでしょう?

浦辺 日本ともう一度戦争をしたかったのではないでしょうか。いわば日露戦争のリターンマッチを仕掛けようという意図があったと見ています。日露戦争はご存知の方も多いと思いますが、あれ以上長引いていたらギリギリの国力で戦って日本海海戦を制した日本は負けていたかもしれなかったのは史実です。

―ロシアの屈辱感ということではないでしょうね。

浦辺 目的は満鉄の奪還です。元総理大臣の伊藤を殺された日本側が怒り狂って戦争を仕掛ける事を意図したものではないでしょうか。ロシアは戦争を仕掛けてでも満鉄を取り返したい理由は、大連と旅順を日本に抑えられたままではロシアにとって東清鉄道は価値が全くない。ウラジオストックの港だけでは工業品、農産物を世界に輸出する事はできませんからね。

―政府首脳は真犯人はロシアだと知っていたんですね。

浦辺 当然、予想していたと思いますね。主戦論者を抑えたのは、山本権兵衛(海軍大臣、総理大臣、外務大臣を歴任)です。当時、満鉄は日本の政党の重要な権益になっていました。国内政界は熾烈な権益の奪い合いが起きていました。日本国にとっても政党にとっても戦争でロシアに満鉄を取られたら多大な損失になります。日露戦争は日本という国家の総力戦でした。日本が一週間かかって製造した弾薬をわずか半日で消耗したのが日露戦争です。これをもう一度やれと怒りに任せてやってしまったらどうなるか。山本たちはよく分かっていました。

―ロシアとの再戦を避けて朝鮮を併合することになったんですか。

浦辺 朝鮮の併合は以前からの規定路線でした。

―伊藤は併合には反対でしたね。

浦辺 それは朝鮮の併合は日本にとって全くメリットがないからでした。伊藤は朝鮮を併合すると日本は破綻すると主張していました。ここで誤解を解かないといけないのは、日本が朝鮮を併合したと歴史の教科書では書かれていますが、正確には合邦です。つまり、あくまでも朝鮮とはフィフティフィフティの関係で、企業でいう提携であって吸収ではないのが実相なんです。意味が全く違います。しかし、最後には併合してしまいますが。

―一部で伊藤暗殺の黒幕とされてしまった杉山はその頃どういう動きをしていたんですか?

浦辺 伊藤にハルビンに行くのを一所懸命止めていました。暗殺の危険性を察知したんでしょうね。杉山は当時伊藤たち政府首脳に「ヒンターランド構想」を主張しています。この構想は日本列島から見て、ロシアを北に位置する後背地(ヒンターランド)に見立ててロシアの南下政策を食い止めるための緩衝地帯、つまり特区を設けるという考えです。その経済特区をロシアと協調してシベリアに作って日本が資源を開発して共存共栄を図るという遠大な構想でした。杉山は朝鮮に関しては日本と緩衝地帯の間に朝鮮を挟んで物資輸送路の沿線開発などで発展させようと考えていました。その話し合いをロシアとやるために伊藤はハルビンに乗り込もうとしていましたが、ロシアにはまだその気がない、むしろ日本と再戦したいという情報が杉山の耳に入っていたのでしょう。伊藤が危ないということで出発直前に下関まで乗り込んで伊藤に行かないように説得しています。

 

 

消された歴史

 

―その杉山たち玄洋社もまだまだ正しく評価されていませんね。玄洋社という存在をどう評価していますか。

浦辺 どう評価するかはまだ難しいですね。敗戦で総括されないままですからね。敗戦直前の昭和十九年に亡くなった頭山満も全く文書を遺していませんし。僅かに口伝を基に伝えられているくらいです。あれだけ巨大な組織なのに全貌がつかめていないというのが現状ではないでしょうか。福岡に帰ってきたのは、玄洋社の地元である福岡に埋もれている資料を収集してスポットを当てたい気持ちは山々ですが、相当な時間とエネルギーが必要です。ただ、やはり最近玄洋社を見直そうという動きが盛んになりつつあるなと思います。例えば、先日開かれた、貴誌で連載されている杉山茂丸の曾孫・満丸さんが主催している「夢野久作と杉山三代研究会」の発表会で未翻刻の杉山と後藤新平の往復書簡があったことが分かりました。これは後藤新平の研究者ですらその存在を知らなかった資料で、福岡は玄洋社研究者にとってまさに宝の山です。

―そういう埋もれた貴重な資料はやはり地元にいないと発掘できませんね。

浦辺 それと戦後GHQに消された日本の近代史によって戦後の現代史もゆがめられてしまっています。玄洋社の実像をなぞることで日本の正しい近代史を福岡から発信していきたいですね。と言うのも、後藤新平の研究者に玄洋社のことにも触れたらと勧めると、「知ってはいるが書けない」と言うのです。書いたら干されると。頭山、杉山のことなど玄洋社に関しては一行も書かない。これでは正しい近代史はいつまで経っても解明できません。触れなければいけない玄洋社を無視した結果、後藤新平の実像が伝わっていない。

―後藤と言うと、関東大震災後の帝都復興で敏腕を振るったという偉人のイメージが定着していますね。

浦辺 玄洋社とのつながりが深かった後藤なのに玄洋社に一切触れないから綺麗な後藤新平像しか出てこないんです。内務省衛生局の医師でジョン万次郎の息子で中浜東一郎の日記を読むと同期生だった後藤のことをぼろくそに書いています。中浜に言わせれば後藤は人望がなく、政治的コネを駆使して出世した権力欲の強い人物だと評しています。そういう後藤の一面は歴史には全く出てきません。

―玄洋社という戦前の光り輝いた存在で近代史を照射すれば光と影がくっきりと出てきそうですね。

浦辺 一国を滅ぼすには伝統文化と歴史を潰せばいいと言われますが、戦後の日本はまさに歴史を潰されてきたわけです。歴史の負も部分も含めて正しい歴史を取り戻さなければこの国には未来はありません。アナーキストで関東大震災時の混乱に乗じて殺された大杉栄に、後藤が当時の三百円という大金を援助したという事実は知られていませんが、大杉の自叙伝にはきちんと書いてあります。杉山の名前も出ています。

―戦後の東西冷戦時代のイデオロギー闘争という色眼鏡で戦前を観ると間違えますね。右左で観てはいけないと。

浦辺 なぜ当時内務大臣だった後藤の自宅をアナーキストの大杉栄が突然訪問できたのか。尾行している警察もいるわけで堂々と後藤の自宅を訪ねているんです。すでに後藤との人間関係は出来上がっていたと考えてもいいと思いますが、表面の歴史上はおかしい話ですよね。それは杉山が間にいたからこそそういう関係ができた事実を研究者は全部無視しているからなんですよ。大杉は杉山の築地のオフィスである台華社を訪ねたとの記述が大杉の自叙伝にしっかりと書かれているにもかかわらず、です。殺された大杉と伊藤野枝、甥の橘宗一三人の遺体の火葬の骨を貰い受ける手配を誰がやったのか。それは玄洋社でした。この史実も消されてしまっています。

―現代の視点では、左翼の大杉と右翼の玄洋社の密接な関係性は説明できませんね。

浦辺 それは戦後、左右の対立構造をわざと作ったために戦前の近代史の実像が全く見えなくなっているんですね。日本の左翼運動の元祖といわれている中江兆民と、右翼の源流といわれる頭山が密接に繋がっている史実をどう解釈すればいいのでしょう。玄洋社の運動が自由民権運からスタートし、互いに頻繁に往来していました。そういう史実を知れば中江と頭山の関係は自ずと分かるものです。中江兆民の死期が近い時にその枕頭にいたのは頭山でした。頭山は戦時中でも共産党員が特高警察につかまって拷問受けているのを助けたりしていたという話を聞くと信じられないという研究者が多いのが現実です。

―霊園から近代史を見るという、これまでにない手法で歴史を紐解いていらっしゃいますが、このきっかけは?

浦辺 元々玄洋社の実像を調べていたのですがその過程で玄洋社が関って支援した朝鮮開化党の金玉均の墓が青山霊園にあると知ったのがきっかけでした。わずかな手がかりでもと思っていたんですが、導かれるように次々と玄洋社に関りのある人々の墓所に遭遇しました。このことは日本の近代史に多くの玄洋社の社員が関っていた証拠です。

 今、日韓関係が歴史問題でギクシャクしていて、日本人の中でも嫌韓感情が噴出している感じがしますが、そんな人は玄洋社が朝鮮人を支援していたと聞くとわが耳を疑うかもしれません。「助けを求めてきた人間は助ける」、窮鳥懐に入るという玄洋社の基本的な精神が根底にあったからです。そこには右も左もないという、スケールの大きさを感じますね。その精神の根源にあるのは敬天愛人、隣人愛ではないでしょうか。「このままでは朝鮮は滅びてしまう。日本のように改革しなければ」と言葉、理念だけではなく命をかけて支援しました。

 初めて金玉均の墓所を訪ねた時に霊園にある埋葬者のリストを眺めていると、「えっ?!ここに頭山満の墓があるのか」と驚きました。その後、谷中霊園を訪れている時、来島恒喜の墓を勝海舟が建てたことにも驚きました。そうやって辿っていくと、日本の近代を築いた人々が、戦後敵同士と思われた人物のお墓が仲良く並んでいたりします。紙に書いたものは改ざんされやすいのですが、墓石に刻んだものは改ざんされにくい。碑名や碑文、誰が建てたかを確認することで、紙の資料を読むだけでは見えてこない人間関係が見えてきます。


浦辺氏プロフィール

昭和31年、福岡県生まれ 福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を始める。学生時代にベルリンの壁を単独で越えた体験が文章を書くきっかけになった。インターネット書評「bk1」では“書評の鉄人”の称号を得る。サラリーマン時代に「熱い書評から親しむ感動の名著」(共著、すばる舎)を上梓。平成21年、オランダ系生命保険課医者を退職後、執筆活動に入る。

著書

「アジア独立と東京五輪」「東京の片隅から見た近代日本」「霊園から見た近代日本」「大宰府天満宮の定遠館」(いずれも弦書房刊)